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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

今日はちょっと実験をしてみた。

先週の金曜日、朝起きてそんなに調子が悪くないのに「今日は行くのやめよう」と決めたことについて、自分でなんでだろう?と考えていたのだが、ある一つの推論をしたのだ。それは、以前カウンセラーに指摘されたことがヒントになっている。「無意識では自分は『行きたくない』と思っているのだが、それを認めないために『行かなければ』という自分の超自我と対立して葛藤を起こし、鬱という症状として現れる。いっそ自分で『行きたくない』ことを認めてしまえばいい。そうすることによって、無意識のレベルのものを意識上に持ってくればコントロール可能になる」ということだ。何週間か前の日記に書いたかと思う。

金曜日、起きてから「休もう」と決めたのは、ひょっとして「行きたくない」というのを自分で認めていたのではないか。それで「行かない」ということを決めたのではないか。自分の意識レベル下の「行きたくない」が、意識上に上ってきつつあるのではないだろうか。それをさらに進めていけば、「本当は行きたくないんだけど、まあまあそうは言ってもいくのが当たり前だから」と自分の心の中で折り合いをつけて、行くことができるようになるのではないか。

前置きが長かったが、今日は何をしたかというと、朝起きたときに「今日は行きたくないぞ〜」と自分でわざと意識してみたのだ。そうすることによって、より自分の意識の中に無意識のレベルにあるものをとりこめてコントロールできるのではないか、逆説的だが「行きたくない」とわざと思うことで行くことができるのではないか、そう思ったのだ。そして結果は…、全く動くことができなかった。朝、ぜんぜん動けなかった。うむ、そんな簡単にいくものではない。ちょっと見通しが甘かったか。

しかしながら今日はカウンセリングがある。いつもの日ならそのまま休んだって構わないが、今日は無意識ではなく、はっきりと意識上に確信的な「行かなければならない」があるのだ。しかし体は動かない。「行かなければ、行かなければ」これは困った、いくらがんばっても体は動かない。そうして粘ることしばらく、12時過ぎにようやく「がばっ」と起き上がることができた。動けたのである。よし、今がチャンスだ。急いで服を着替えると髭も剃らずにそのまま家を飛び出した。行ってしまえばこっちのものだ。外に出れば体は動くのだ。要は「最初の一歩」がいつも踏み出せないのだ。

病院についたら14時前。デイケアでは11月に行くイベントのミーティングをやっている。矢切の渡しに行く予定だったのだが、なぜか企画が上に通らなくて箱根観光に変更になったようだ。箱根のどの辺に行くか相談していた。

そして15時からカウンセリング。先週は祝日で休みだったから2週間ぶりである。ここ2週間、特に先週1週間の調子が悪い様子を1日ずつ話していく。私の話を聞いてカウンセラーは開口一番「外に出る、というのが相当重いようですね」と言う。バスツアーでさえ昼過ぎには疲れた、というのは相当外にいることで気を張っている証拠だ。普通そういう日帰り旅行に行ったらリフレッシュして帰ってくるものだ。そんなに予定を詰め込んだツアーでもないのに、なぜ昼過ぎに疲れてしまったのか。

家の中にいる自分と外に出た自分は全く違う。外に出た瞬間、私は「外づらの男」になり、周りから「こうあるべき」人間を演じるために気を張っている。そう生きてきたのだ。

今までのカウンセリングを通じて何回も指摘されてきたことだ。外にいると私はリラックスできないのだ。常に、である。だから疲れる。だが夏はそんなことなかった。多少夏ばて気味で疲れてはいたが、なんとかデイケアにも通っていた。それがなぜこんなにも外へ出るのがしんどくなったのか。そこはまだわからない。「ちゃんと毎日通えていた」という実績はある。そしてその頃は「このまま順調に行けば職場復帰もできる」という自信もついてきていた。しかし今はまた自信を喪失している。

これから自分はどうすればいいのか。カウンセラー曰く、自信をつけること、取り戻すことだと言う。実績はあるのに自信がない。もう一度実績を積み重ねるしかないのか。

最後に「いろいろ話しましたが、考えるのはこの時間だけにして、来週のこの時間まで考えなくていいです」と言われた。考えるとループに陥ってしまう。考えるより動け、動くのだ。明日もあさってもしあさっても、とにかく動くのだ。動こう。大丈夫、自信は取り戻せるだろう。そう思って前向きに行こう。


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