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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2003年9月15日

昨日は23時頃就寝。割と早く寝付いたが、2時半くらいに目が覚めてトイレに行った。朝方、4時くらいだったかまたトイレに行った。なんでこんなにトイレが近いのか。寝室が暑かったのでリビングのソファで寝る。6時過ぎに目が覚めてメールチェック。ダンスダンスレボリューションの落札者から返事が来ているので、送料を含めた代金と振込先を知らせる。GPSの方はさすがにまだ日数があるので値に動きはない。しばらくPCに向かっていたり朝食を食べたりしていたが、7時過ぎだったか、もう一度寝室に行ってエアコンをつけて寝てしまった。起きたら9時半だった。そしてすぐにまた寝てしまった。起きたら11時半。夫婦揃って今日は大寝坊。彼女はバイトが13時から。私は合唱団P習に行くために14時半の電車に乗る予定。

どうも調子がおかしい。なんとなくおかしい。自分ではわかっている。「鬱」である。なぜかだわからないが、ここに来て久しぶりに「鬱」が出てきた。今まで夏ばてだかなんだか、体力的な疲労感を感じることは続いていたが、「鬱」が出てきたことはしばらくなかった。この連休で十分体も休めたし、特にストレスのかかるようなこともしていないのに、なぜか「鬱」が出てきてしまった。久しぶりに昼前まで寝てしまって体のリズムが狂ったのが原因なのか。それとも単にバイオリズムが悪い方向へ行っているだけの内因性のものなのか。昼食を食べながら低いテンションでそんなことを考える。今日の練習はどうしようか。とりあえず合唱団PのMLには「体調が悪いので休むかもしれません」というメールを入れ、しばらく横になって様子を見ることにした。

気がつくと14時を過ぎていた。練習に行くのであればもう準備をしなければ。「鬱」の感覚はさっきよりましになっていて、行こうと思えば行けなくもない。ただ、まだ何となくもやもやとしたものが頭に引っかかっていて、ノーマルな状態よりもテンションは低い。今日1日だけのことを考えると多少無理して行くことは可能であろう。行って練習に出て帰ってくることはできそうである。

しかし、今日だけで終わりではない。明日からまた新しい1週間が始まるのだ。今週は祝日があるため平日は4日間と言え、明日からまたデイケアに毎日通わないといけない。私の最大の目標は「デイケアに毎日通う」ことである。これは復職して毎日会社に通うことを想定した訓練であり、デイケアに通うことは会社に通勤することのシミュレーションである。

だから、休日の活動で無理をしてデイケアに行けなくなると本末転倒なのである。多少調子が悪くとも、自分なりにコントロールして会社にはちゃんと通って仕事をして帰ってくる。それができるように訓練しているのだ。今日無理をすると、帰ってきたら疲れ果てていて明日デイケアに行けなくなる可能性はおおいにある。今まで何度もそういうことを繰り返していた。今日の練習はK生の練習で大事な練習ではあるし、ピアニストの先生も来るので私の好きなブラームスの練習をする。行きたい、という思いは強いがそこをあえて抑えて、明日のために今日はゆっくり休むことにした。

少し休んだら多少気分もよくなって来たので、PCに向かってあれこれネットサーフィンしたり、オークションに出品したGPSの動作確認をしたりした。GPSはなかなか初期設定がうまくいかず焦ったが、屋内なので衛星の電波をうまくキャッチできていないようで、近くの公園に行って試したらうまくいった。現地点の緯度、経度を表示したり、現在の時刻も衛星から自動的に取得したようだ。夕方になったので洗濯物を取り込んでたたんだ。なんだか調子が悪い。さっきと違って体がだるい。風邪をひいたような感じである。熱を計ってみたが特に問題なし。やはり心と体はつながっている。せっかく練習を休んだのだからおとなしくじっとしているべきだったか。とにかく今日はゆっくり休もう。

だるい。夜になってもだるい。通常「鬱」の症状は午前中に現れ、夕方から夜を迎えるにつれて軽くなっていくのだが、どうにもだるい。「鬱」なのか、体自身の調子を崩しているのか。体は連休でゆっくり休めたはずなのだが。昼間にちょこっと動き回ったのがいけなかったのか。練習を休んだのは正解だったが、それでも調子はあがらない。おなかもこわしているし、なんだか熱っぽさも感じる。でも熱はない。いったいなんなのか。

とりあえず今日は早く休むことだ。今週から来週にかけて、デイケアのキャンプやら、彼女の家族とうちの家族と食事会、合唱団Pの演奏会などイベントが目白押しで忙しい。これを乗り切るとなんとかなると思っていたが、ここに来て調子を崩すとは。やはり自分にとって「魔の9月」「鬼門の9月」だ。前にもこんな感じの状態からずるずると調子を崩していって立て直せなくなったことがある。でも今は違う。一人暮らしでなく、彼女もついてくれている。なんとか2人で乗り切るのだ。

夕食前に自律訓練法をみっちりやってみる。少しましになったような気もするが、あまり変わらない気もする。夕食後、ぐったりとソファに寝転がって最近買ったCD、元ちとせの「ノマド・ソウル」を聴いている。アルバム全体を通していい曲ばかり入っている。そしてソファに座りなおし、手を合わせて自分はこうつぶやく。「お願いです。どうか明日、調子がよくなっていますように。お願いします。明日の朝起きたら調子がよくなっていますように」ひたすらつぶやく。祈りである。何か具体的な神やら仏に対する祈りではない。自分の力ではどうすることもできなくなって、とにかくこれ以上のことは自分では無理だ、あとは誰かなんとかしてください、というすがる思いから自然に出た必死の言葉である。

私は特定の神仏を奉ることはしない。したがって神に祈る、というようなこともしない。しかし宗教の必要性というか存在価値は自分なりの捉え方をしている。前にも書いたことがあるが、それはプラシボ効果と同じだと思っている。プラシボ効果とは、何の効果のない「偽薬」を「風邪薬だよ」と言って患者に飲ませると本当に風邪が治ってしまう、というようなことである。これはつまり、「人間には自然治癒の潜在能力が備わっており、それは薬ではないものを薬だと信じることによって引き出される」ということが科学的に証明されていることを意味する。

そして宗教も同じであると私は感じているのだ。自分の力では何ともならない。しかし、「神」という「偽薬」を「信じると救われる」と信じることによって、プラシボ効果は現れ、人間の潜在能力は発揮される。宗教とはそういうものだと思っている。だが、プラシボ効果を期待して薬を飲んでもその効果は現れない。本当の薬だと「信じる」という心の動きによってその効果は発揮されるのだ。どうも頭でっかちな自分は、宗教も同じ仕組みだと思っている以上、「治りますように」「よくなりますように」と祈ったとしても、どうせそれはプラシボ効果と同じことだ、と頭で考えている以上自分には無意味だと思ってきた。

しかし今日、多分生まれてはじめてかもしれないが、本気で「祈った」のだ。何に対して、というわけではない。ただ何かにすがりつきたい思いで。体も休めました。自律訓練法もやりました。今日は早く寝ることにします。自分でできることは全部やりました。だから、どうか、どうか明日の朝起きたら調子がよくなってますように。お願いですから調子がよくなってますように。本気で祈ったのだ。これは今までの自分にはなかったことで、自分にとっては新しい体験である。こういう心境になるのは是か非か。それはまだわからない。いつわかるとも知れない。だが、少し自分に変化があったような気がする。明日はどうなるのか。これ以上悪い事態を考えてもしかたがない。人事を尽くして天命を待つのみ。だから今日はただ明日になって回復していることを祈って寝るのみ。仏教で言う本当の意味での「他力本願」はこういうことだったかもしれない。

奇跡は起こるものである。テレビをつけると阪神が優勝して道頓堀に人が飛び込んでいる。今年は阪神が優勝したのだ。自分の病気だってよくなってもぜんぜんおかしくはない。そう思って今日はゆっくり休もう。明日のために。