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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2002年12月1日

そして今日に限って調子はいい。

昨日あれだけ落ち込んでいたのに、一晩寝るとけろっとしている。朝5時半に起きて、珍しく二度寝せずにずっと起きていた。午前中はテレビを観ていた。サンデージャポンはやっぱおもしろい。

昼からは彼女と一緒に昼食を食べ、雨も降っていることだし家でのんびり過ごした。今日はぜんぜん調子が悪くない。こんな何もない日に限って?「今日に予定があったらよかったのにね」彼女がそう言う。

だが、そういうわけではないような気がする。たとえ昨日の予定が今日にあったとしても、そのときは今日に調子を崩しているだろう。確かではないが、昨日のように大きな予定が一日に二つもあると、それだけで自分自身にプレッシャーを感じてしまい、それに押しつぶされてしまっていたのだと思う。カウンセリングでも以前指摘されたことだ。

そして何にプレッシャーを感じているのか。外に出ることではなく、人と交わることでもなく、「体力がもたずに途中でギブアップすること」を恐れているのではないか。これも以前カウンセリングの中で言われたことで、あくまでカウンセラーの見解であった。それを言われたときは自分の中ではあまり納得がいってなかった。しかし、今になって考えてみて、確かに「そうかもしれない」と思うようになった。

昨日のイベントはデイケアのプログラムなどとは違って、自分の趣味や友達づきあいであり、参加するしないは自分の意思によるものだ。そして自分が「参加したい」と思ったからこそ参加表明をしていた。しかし、いざとなるとそれがプレッシャーになるのだ。最後まで体がもたずに「途中で投げ出す」自分の姿を人に晒すことに対しておおいに脅威を抱いている。そうカウンセラーは指摘する。

そして明日である。月曜日。毎週書いているがブルーマンデー。前にちらっと書いたが、「明日はどうも行けそうにないんじゃないか」という「予感」を前の日から感じることがある。そしてたいていその予感は当たっている。しかし、今まではその予感を感じても、それを無視してきた。自分でなんとなく「明日は無理じゃないか」と感じても、あえて日記は「明日はどうなるだろう」とか「明日こそデイケアに行こう」そういうふうに書いてきた。これは現実の自分自身の心と向き合ってないのではないだろうか。

「悪い予感」を感じたその瞬間からプレッシャーはかかり始まっている。その予感から目をそむけるということは、つまりプレッシャーがかかっていることに自分で気がつかなくなる、ということ。そして次の朝、いきなりずどんと来たプレッシャーに押しつぶされて動けなくなるのではないか。

ではどうしたらよいのだろうか。やはりここは「自分の心と真正面に向き合う」ことが必要ではないか。「明日は無理かも、行けないかも」という予感を感じたら、素直に「あ、自分はプレッシャーを感じてるな」と受け入れてしまうのがまず必要なことだろう。そしてその上で「じゃあ、明日起きたら調子が悪い可能性は高い」ということを頭に入れておく。そうすると明日の朝にガツンと来ることはないかもしれない。プレッシャーがかかって調子が悪くても「まあ、予想通りだ」と受け流して開き直ると、案外早く立ち直って午後から行けたりするかもしれない。

今までは、自分の心の声を無視して「絶対行ってやろう」と言い聞かせていたにもかかわらずガツンとプレッシャーに押しつぶされて、そのショックで一日寝込んでしまう、というパターンではなかったか。

なんだかんだ書いたが、カウンセリングの一番最初の頃、もう一年前になるが、これは最初から指摘されていたことだ。自分のプロフィールを語る中で「大学で一番おもしろかった講義は?」という質問に対して「フロイトの夢判断の講義でした」と答えたためだろうか、カウンセラーはいきなりフロイトの理論を持ち出して私の心理分析を始めた。それによると、私は「超自我」=「〜しなければならない、〜ねばならないという外的な制約」が自分の意識と一体化しており、「エス」=「本来の自分の潜在意識。無意識の欲求」が自分でわからなくなっているというのだ。今の自分は「何をしたいか」ということが自分で見えなくなってしまっており、自分の行動基準は「何をしなければならないか」ということにとらわれすぎているという。

自分の無意識の声、「本当は〜したい」あるいは「本当は〜したくない」に気がつき、自分の意識の中に取り込むよって、それはコントロール可能となる。それは一年前に説明された。説明されたが頭で理解できても実感として肌で感じることがなかった。「あくまで自分で気づかないと自分は変えることができません」そうも言われていた。やっと自分の感触としてわかりかけてきたような気がする。少しずつであるが、見えてきたような気がする。焦らずに、少しずつだ。自分の無意識の声が「予感」という形で認識でき、それを認めたからといってすぐに行動に結びつくとは限らない。じょじょに、じょじょに。