いつの間にか3月か。母が亡くなってからもう2週間。つい昨日のことのようだ。
季節は春であるが、まだ空気は冷たい。自分の体調もいまいちな状態が続いている。
今の健康状態では、フルタイムでの勤務はちょっと無理そうなので、パートタイムのような勤務から徐々に様子を見て仕事量を調整するといった働き方から始めたい。そういう融通が利く就職先はないものだろうか。
1ヶ月後、自分はどうしているだろう。
いつの間にか3月か。母が亡くなってからもう2週間。つい昨日のことのようだ。
季節は春であるが、まだ空気は冷たい。自分の体調もいまいちな状態が続いている。
今の健康状態では、フルタイムでの勤務はちょっと無理そうなので、パートタイムのような勤務から徐々に様子を見て仕事量を調整するといった働き方から始めたい。そういう融通が利く就職先はないものだろうか。
1ヶ月後、自分はどうしているだろう。
お葬式って、なんでこんなにお金かかるんだろう。
母が亡くなったのが夜中の10時頃だったのに、0時くらいにはもう葬儀屋が病院に来ていたらしい。まるで死体に群がるハゲタカみたいだ。父とともに打ち合わせをしていた兄曰く、「本人抜き、遺族抜き」のビジネスライクな葬儀屋の説明。お棺はどのタイプにしますか、お花はどうされますか、これだったらウン万円、これだったらウン十万円。でもせっかくの最後のセレモニーだから故人のためにもなんたらかんたら。テレビ番組でやっていたが、葬式にこんなにお金がかかるのは日本くらいなものらしい。
もちろん、自治体にお願いすればウン百万円も出さずに安価に葬儀を執り行なうことはできるし、生前から母も自分が死んだらそれでいいと言っていた。でも、病院と葬儀屋はおそらくつるんでいて、誰かが死亡したら自動的に葬儀屋が来るようになっていて、その後は放心した遺族の心につけこんで少しでも高い葬儀を出させるのが彼らの仕事なのだろう。なんだかばかばかしい。
でも、父も母もいろいろなつきあいが多くて、たくさんの弔問客も来てくれた。それはそれでよかったのかもしれない。たくさんの花に囲まれてお棺に入っているおかんは、たくさんの人を見て喜んだのだろうか、それとも「こんな金かけなくてもいいのに」と怒ったのだろうか。
平野元官房長官(鳩山政権時代の人ね)から弔電をいただいたり、その代理の方も告別式に出席していただいた。実は平野氏の地元で近所なのだ。知ってはいたが、弔電をいただいた方の名前を司会者が読み上げているときにはちょっとびっくりした。
それにしても、なんか変わったお葬式だったなあ。お坊さんの読経も変わってたし(後にお坊さんが喉を痛めていたためだと判明)、告別式の前に親族一同で記念写真を撮ったりしたし。お葬式で記念写真ってはじめてだ。おかんも写ってるかな。
それは急すぎた。
おかんの容態が急変したとの知らせをもらったのが先週の金曜日。
しかし、雪が降ってものすごく寒くて体調が悪かった私はすぐに動けず、日曜日にようやく駆けつけることができた。
おかんはぼろぼろになりながら、しかし意識はしっかりしていて、話もちゃんとできた。
新幹線で来たから疲れたやろう、はよ家に帰り、て病室を追い出された。まるでトイレの神様だ。
次の日には、食事もできずに点滴をうっていたおかんが、流動食を食べられるようになっていた。回復の兆しがある。まだ望みがあると思った。
月曜日にもお見舞いに行き、火曜日には病院に寄って、「おかん、僕いったん横浜に帰るからな、また来るからな」そう言って横浜に帰った。しっかりと話もできていたし、あと少しはもつだろうと思っていた。
次の日の水曜日。夕方に兄貴から連絡がきた。
「さっき医者から話を聞いたけど、もうもってあと数日らしい」
そんなばかな。よくなってきたんちゃうんか。耳を疑った。
夜の10時頃、兄貴から電話が来た。
「病院から電話があったから行ってくる」
妻が出た電話にはその一言だけだった。
そしてしばらくして兄貴からまた電話がきた。
「間に合わへんかった」
その言葉の意味を理解しようとするのを心はかたくなに拒んだのだが、そんなことは無駄な抵抗だった。
あっけなかった。
おかんは誰にも看取られずに天国へ行ってしまった。
早過ぎるよ。
まだ69歳だった。
0時頃、お通夜が翌日だと知らされて、そこからは何をどうしたのかよく覚えていない。とにかくしっちゃかめっちゃかで準備をしたが、力尽きた。
大阪にとんぼ返りすることとなった私は、疲れがたまっていて調子も悪いのもあって、朝からは動けなかった。家をやっとで出たのが正午前だった。タクシーを拾って新横浜駅まで行って新幹線に飛び乗った。
納官式は15時からだったが、着いたのは15時半くらいで、もうお棺の蓋は閉じられていた。間に合わなかった。末期の水をとってやれなかった。あと1時間、いや30分早く動けていたら。
それからはお通夜、翌日は告別式と初七日の法要も済ませて、お経を聞きっぱなしだった。体調が十分でない中、正直疲れた。
でもおかんを最後まで見届けてあげないと。最後まで家に連れて帰ってあげないと。
父親の車で実家に戻った。お骨は自分が膝の上に抱えていた。
「おかん、うち戻ってきたで」
おかんは無事成仏できたのだろうか。それとも千の風になったのだろうか。
おかん、見守っていてな。いつもありとあらゆるところに気配りをするおかんやったから、きっと自分のことも守ってくれるよな。見守ってくれたらそれでいいから、よけいな心配とかせんでええからな。
おかん、これからもよろしく頼むな。
今まで心配ばっかりかけてごめんな。
小学生になってもおねしょが治らなくてごめんな。
いつまでたってもマヨネーズも酢の物も食べられへんで、僕にだけ別メニュー作らせてごめんな。
僕が高校生の時、おかんが病気で入院していたのに、アトピーがひどくなった顔でお見舞いに行って逆に心配させてごめんな。
僕が大学生の時、急性アルコール中毒で救急車で運ばれて、心配させてごめんな。
社会人になってから、僕がうつ病のこと隠してて、失踪して警察に捜索願まで出させたりしてごめんな。
久しぶりに会うたびに、太りに太って心配させてごめんな。
糖尿病になったって心配させてごめんな。あれ、本当は飲んでた薬の副作用で一時的に高血糖値が続いてただけやってん。でもせっかくダイエットしたのに、またリバウンドしてしまってごめんな。
おかん。
間に合わなくてごめんな。
誰も看取ってやれなくてごめんな。
本当にごめんな。
おかん。