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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:メンタルヘルス

5:00起床。2:00に目が覚めたが、その後も一回目が覚めたような気もするがよく覚えてない。5:00に目が覚めて、まだ寝られそうだったけど、ちょっと起きてきてホールへ出てきてみた。寒い。朝はかなり冷え込むようになってきた。20分ほどそこにいてから、やっぱりまだ眠いので、病室に戻った。また寝ると起きられなくなるかな、と思ったが、別に起きられなくてもかまわないのでまた寝た。

そして6:00になり、起床時間を知らせる放送が入った。案の定、起きられなかった。だが、まあいいや起きる必要もないし、と思ってそのまま寝ていた。が、ラジオ体操の音が聞こえてきたとき、「あ、ラジオ体操だ。う~ん、これは行こう」かと思ったが体が動かない。「ま、いいか」そのときはあきらめた。その後だ。ラジオ体操の直後に朝の服薬があるのだが、自分は一人遅れて薬をもらいに行って飲んでいる、という夢を見ていた。その後には、「昔、自分が弟にしたひどい仕打ちを思い出し、そのトラウマに苦しんで『自分も弟も今こんなに苦しんでいるのは、自分が弟にあんなことをしてせいだ』と泣いて看護婦に訴える」という夢を見た。不思議だ。その夢に出てきたような「仕打ち」など私はしておらず、そういうトラウマはないはずなのだが。

7:00の朝食を知らせる放送でようやく体が動くようになり、朝飯を食べに行った。朝食後、洗濯物を洗濯機に放り込んで、海の見える丘へオカリナを吹きに行く。昨日、私が8月に出るはずだったアマチュア音楽家による演奏会の第2回の出演者募集のメールが来ていた。5分、10分、15分と枠があるが、10分で出てみようかと思っている。どの曲を吹こうかな。今日は候補曲として考えているのを吹いてみた。一度きちんとタイムを計ってみる方がいいだろう。

病棟へ戻ってくると、まだ洗濯が終わってないので、昨日のT看護婦の件について、日記に書いたのとほぼ同じ内容を紙に書き、投書する。他にも投書している人がいるかもしれない。他の看護婦の、やはり頭ごなしに叱りつけるようなものの言い方に対して直接医者に直訴した患者もいるそうだが、全く改善の余地は見られないそうだ。この投書も無駄かもしれない。だが、やらないよりましだろう。

外出まで時間があるので「道は開ける」を読み進めると、なんと「2週間でうつ病を治す方法」という節があった。こんなのすっかり忘れていた。読んでいくと、書いてあるのは、要は「一日一善」ということで、毎日誰かに親切にすることを考えていれば、精神状態はよくなって病気なんか治ってしまう、ということだそうだが、それでうつ病が簡単に治るのかいな?という疑問はどうしても出てくる。私も、たまに意地悪もするが、基本的には人に親切にしているつもりなのだが、まだまだ足りないということか。あるいはもっと積極的に「どうしたら人に親切にできるか」を考えて、実行するということか。どうもこの本にはそういうニュアンスで書かれてある。まだこの節を最後まで読んでないので何とも言えないが。

外出の時刻になったので、バスに乗り駅前へ出る。店が開くまで時間があるので、駅までの喫茶店に入り、ぼんやりした頭を覚醒させるためにエスプレッソを注文する。で、飲みながらこれを書いている。こういう空き時間を利用してこういうことができるのは、本当に便利なものだ。

買い物を終えて、バスの発車時刻まで時間があるので、今度はハンバーガーショップでこれを書いている。けっこういろいろ買い込んでしまった。買い物はやはりストレス発散の一つなんだろう。「失恋した女性が、衝動買いをしてしまう」というのも、ある満たされない欲求に対して、別の形で欲求を満たすということで精神的なバランスを保っているのかもしれない。今日は買い物していても全く疲れなかった。これくらいのストレスには耐性ができたようだ。

病棟に戻り、買ってきた小箱で床頭台の上を整理する。うん、かなりすっきりした。今まではメモ帳、ボールペン、タバコ、ライター、箸箱、スプーン、スティックシュガーなどが散乱していたのが、二つの小箱にすっきり収まった。それから棚の整理も行い、なんとかうまく衣類を収納できた。よかったよかった、と思いきや、そうだ今日は洗濯物を干してるんだった。それを取り込んだらまた増えるじゃないか。まあ、何とかなるだろう。

「道は開ける」を読み進める。「2週間でうつ病をなおすには」の節を読み終える。結局、目を自分の内側でなく外側、つまり他の人に向け、その人たちに対して親切をすることによって自分が幸福になれる、ということだ。それを積極的に探してやりなさい、そう書いてある。たとえば、会社で仕事をするときも、「自分が食っていくのに必要な金をかせぐため」とか「会社の利益に貢献するため」とか考えるのでなく、「この仕事をすることによって、まわりまわって誰かが幸せになるかもしれない。その人のために自分は喜んで働こう」そういう心構えでいると、精神的な安定感を保てるのかもしれない。これは私の解釈だが。日本の諺で言うと、「情けは人のためならず」ということか。この諺の意味を誤解している人もいるそうだけど。

夕方近く、喫煙所にいると同室のRさんが寄ってきてこう言う。「これから毎日朝と夕方に部屋でお経をとなえていいですか?少しうるさいかもしれませんが」そうだ、Rさんはある宗教の信徒だった。全国的にたくさんの信者がいる、割とまともな宗教だ。だが、それがどれだけ排他的なのかわからない。下手に「ダメです」と言うと、怒りを買ったり、あるいは彼を精神的に落ち込ませたりするかもしれない。とりあえず「いいですよ。でも看護婦さんにも一応断っておいた方がいいと思いますよ」と答える。

夕方の服薬後、リラックス体操をやっていると、Rさんが病室に戻ってきて「じゃ、始めますんで」と言ってお経をとなえ始めた。そんなに大きな声ではないが、狭い病室なので声はよく聞こえる。う~ん、今は体操やってるだけだから気にはならないが、本を読んでいたりすると気になるかも。病室には彼と私の他、誰もいない。そのうち誰かが看護婦を通じて文句を言うかもしれない。とりあえず私は静観していよう。

ところで、今日も腹の具合が悪い。別に何か悪いものを食べたとかではなく、神経性のものというのはわかっているが、腹の具合が悪いならやはり冷やすべきではないだろう。話は少しそれるが、私の両親は怪しげな「健康グッズ」が好きで、「この指輪をはめるとどんな病気も治るらしい」とか「この布は遠赤外線を出していて、これをあてているとその部分の病気が治る」とかなんとか言って次から次へと人に勧めるので、私は閉口している。で、数日前に母親がその「遠赤外線が出る布」なるものを数枚送ってきた。20cm四方くらいの、厚めの白い布である。遠赤外線か何か知らんが、腹巻き代わりにちょうどいいのでパンツに挟んでTシャツの中に入れている。

今日は土曜日にしては外泊が少なく、けっこう人がいる。今日は連絡会もないが、喫煙所に割と人が集まっていたので、買ってきたおはぎを広げた。本当は食べ物を人にあげるのは禁止されているのだが。私の一つ年上の会社員のKさんが風邪をひいて鼻水が止まらないらしく、ティッシュを丸めて両方の鼻の穴につめている。鼻水が止まらないと本当に苦しい。あれは私もやったことがある。以前、会社で一つのティッシュの端と端を丸めて両方の鼻の穴に詰めて仕事をしていたら、えらく笑われた。O嬢が「タンポン詰めてみたら?持ってきてあげようか」とか、私が「綿棒つめてみようよ。何本入るかギネスに挑戦してみよう」とからかっている。「耳栓」ならぬ「鼻栓」が発売されると、果たして売れるだろうか?

病室に戻り、「道は開ける」を読み進める。新しい章「悩みを完全に克服する方法」に入った。いきなり、「悩みに対する最大の良薬は宗教的信仰である」とある。やはり人間は自分に対して謙虚になり、自分であって自分でない何か、つまり一般的に「神」と呼ばれているものに「祈る」という行為が精神的安定をもたらすのであろうか。

なんだか私も熱っぽくなってきた。喉も痛い。どうも風邪の初期症状のようだ。全身冷や汗をかいている。やはり急に寒くなったからであろうか。私は季節の変わり目や急激な温度変化に弱く、すぐに体調を崩してしまう。看護婦に相談すると、もうすぐ回診の医師がくるというので、そのときに風邪薬を処方してもらえるとのことだ。で、ほどなくして風邪薬と、うがい薬の定番「イソジン」が出された。「イソジン」は効果てきめんなのだが、これでうがいするとコップがイソジン臭くなるのが玉にきずだ。まあいいや。今日は早く寝たいので、20:00に眠剤をもらって飲み、洗面した後にうがいをする。明日には調子がよくなっているといいな。

昨日は21:00就寝後、23:30だったか、一度目覚めたような気がする。その次は3:00に目が覚め、その時点で頭がすっきりして起きようかと思ったが、いくらなんでも早すぎるのでもう一度寝た。そして起床時間の6:00まで断続的に寝たり起きたり、を繰り返していた。睡眠のパターンが変わってきている。6:00に起きたのはいいが、なんだか頭がぼんやりしている。この間みたいに「起きられない」ということはなかったが、どうも「むりやり起きたけど寝ぼけてる」状態だ。

昨日の寝る前から、カーネギーの「道は開ける」を読んでいる。驚いたことに、最初の章の内容は去年読んだばかりなのにもう忘れている。こりゃいかん。2章の内容は自分にとって「目から鱗」だったのでよく覚えているのだが。やはり繰り返し読まないといけないし、この本に書かれている「ものの考え方」を日常生活で実践することが大切なのだろう。

朝食後もその本を読み進めるが、途中から頭がぼんやりしてきて、書いていることが頭に入ってこなくなった。読んでも内容が頭に入ってこないのであれば、読もうとするだけ時間の無駄である。本をそのままにし、横になって頭を休める。すると、いろんな不安、特に先日私が起こした「ウイルス避難訓練」に対する非難など、様々な不安が頭を支配してきた。不安なことを考えてもマイナスにしかならない。必死で不安を頭から追い払おうと、明るい未来を想像する。が、不安は大きなパワーでもって押し寄せてくる。途中からヒーリングのCDをかけて心を静めようとしたが、なかなか対抗できない。「自分の中にある不安は最大の敵」であり、それを追い払うには、やはり強い精神力が必要とされる。その精神力は今の私には足りないのか。それを発揮するには、やはり「自分の中の神」に祈るほかないのか。

できるだけ休んでから作業棟に行く。そのちょっと前に「今日は午前中にソフトボールをします。出る方は集まってください」という放送が入った。N看護士が率先してやってるみたいだが、なんで作業療法の時間と重ねるんだろう?私が畳でストレッチしてるときに、N看護士から「ソフトボール出る?」と誘われたが、「私は自分のメニューをこなしますので」と断ってしまった。出てもよかったが、今日は自分の体調はあまりよくない。却って無理をしてしまっても困る。通常の体力トレーニングメニューをこなすことにした。

心拍数を計ると、やはりかなり高い。体力テストを行うと「6段階中の1。劣る」まあ、今日はこんなものか。10分インターバルをとってから20分1セット漕ぐ。やはり今日はかなり調子が悪いようで、負荷はあがらないのに心拍数だけ上がっていき、消費カロリーも少なかった。今日は無理をせず1セットで終わりにした。あ、腹筋するの忘れた。まあいいや。

エアロバイクを漕いでいるときに、隣でピアノを弾いているMちゃんが話しかけてきた。「明日、外泊するんだ。それがうまくいったら退院なの。うまくいくかな~。多分ダメかも」それに私は答える。「大丈夫、うまくいくよ」すると彼女は「うん、うまくいくよね」と笑ってくれた。「うまくいかないかも」と考え出した瞬間から、自分の心はマイナスの方向に走り、結果的にうまくいかなくなることは「心の法則」らしい。「大丈夫、うまくいく」いつでも前向きにそう考えられれば、私ももっと楽になれるのだろう。

その後でMちゃんが「陶芸で作ったんだ」と言って、自作の灰皿を見せてくれた。なかなか素朴で味があっていい。「色付けに失敗しちゃったんだ。本当は全部ここの色で染めたかったのに、周りがうまく染まらなかった」残念そうにそう言う。「何も完璧にできる必要はないよ。はじめてでこれだけできたんだから、『よくやった』って自分を誉めてあげなよ」人には簡単に言えるが、自分でそう思うのは難しい。私もご多分に漏れず完璧主義で、一点の曇りも許せない性格だから。それが自分を今の状況に追い込んだことはわかっている。が、そういう性格、ものの考え方を変えるのは難しい。難しいが、不可能ではないはずだ。少しずつ、少しずつ。あせらずに自己変革をしていこう。

昼の服薬後、みんながテレビを見ている。「ここが変だよ日本人」の「心霊特集」という、ちょっと変わったテーマを録画したビデオだった。私はこういう「心霊もの」が実は好きなので一緒に見ていると、心霊ものの後に、中国一番と言われる気孔士が出てきて、「気」の力で人を動かしたり倒したりする、というのをやっていた。一緒にビデオを見ていた人達は「やらせじゃないの?」と言っていたが、私自身は「気」というものの存在はなんとなく「あるんじゃないだろうか?」と思っている。実際自分が体験したわけではないが、世の中にはまだ科学で解明されていないことがたくさんあるはずだし、私があるに違いないと思っている「人間に秘められた未知なるパワー」の一つが「気」かもしれない。私の素人考えだが、「気」とは精神的エネルギーの形態の一つで、「気を送る」とは、精神的エネルギーを何らかの伝播路を通じて伝達することであり、「気によって人を動かす」のは、精神的エネルギーを何らかの形で物理的エネルギーに変換し、それを空間を超えた伝播路を通じて伝達させることなのではないか。その「エネルギー」やら「変換メカニズム」「伝播路」が科学的に解明されていないだけなのかもしれない。まあ、テレビ番組だから当然脚色はあるだろうが、私は他の人のように全否定するつもりはなく、とりあえず見ていておもしろかった。

昼食後、売店に行って「依存症 溺れる心の不思議」という本を買ってきた。けっこうみんな読んでいる本だ。私は別に何かの依存症で入院しているわけではないが、性格的に何かの依存症に陥ることは十分ありうる。それは昔から自覚していて「一度何かにはまってしまうと、どっぷりはまって抜けられなくなる」のだ。だからゲームもやらないし、学生時代に麻雀に誘われても、あえてルールさえ覚えようとしなかった。今後何かの依存症になる可能性はある。その予防策として、「依存症」について予め勉強しておこう、そう思って買った。また読む本が増えてしまった。

昼一番に入浴後、「道は開ける」を読み進める。改めて書いてあることに納得するとともに、書いてあることをすっかり忘れていたことに気づく。やはり、何かの形で実生活にこの考え方を取り入れなければならないだろう。Kさんと話していて「悩みのない人ってのは、ここに書いてあることは自分で会得しているんだろうね」そうかもしれない。

だが、ふと気がついた。去年も一昨年も、9月になって鬱が急にぶり返した。自分の分析では、それまでが自分にとって「躁状態」であり、そのときにエネルギーを使いすぎたため、その反動で鬱が来たのだろうと思っている。季節的なものやバイオリズムも関係あるかもしれない。とにかく、そのときは「悩みがない」のにぶり返したのだ。一度この病気になってしまったら、悩み以外の原因で病気がぶり返すのだろうか。あるいは「ぶり返した」のでなく、「鬱から躁に転じた」のを「治った」と思いこんでいただけで、それがまた逆転しただけなのか。

この本に書いてあることがすべてではない。たとえば、悩みをなくす方法の一つとして「忙しくすること」があげられている。「やることがたくさんあって自分を忙しい状態に追い込むと悩んでる暇なんてない」そうだ。しかし、忙しすぎて悩んでいる人もまたいることだろう。この本は一つの指針ではあるが、すべての場合において自分にあてはまるとは限らない。そもそもこの本に限らず、どの本もそうなのだ。だからこそ、いろんな本をまんべんなく読んで、「自分に役立つ」と思ったところを少しずつ取り入れたりカスタマイズしたりして自分の「生き方」「心のあり方」を習得していくべきなのだろう。

自分の場合、上に書いた「忙しくすること」を取り違えて「パワーを使いすぎる」状態にならないように気をつけないといけない。今の自分の悩みは「何かの拍子で鬱状態に入ったときに、悪循環に陥らないようにするにはどうすればいいか」と「躁状態であることを自覚するにはどうすればいいか」だ。悩みというより、課題と言った方がいいかもしれない。

同室のRさんが調子が悪いようだ。彼は分裂症らしいのだが、「被害妄想」ならぬ「加害妄想」があるようで、「世界がこんなにひどいのは僕のせいなんです」と必死に看護婦に訴えている。同時多発テロ事件の影響だろうか。

連絡会で、ある患者が「洗面所の蛍光灯がまだ直ってないのですが」と質問したとき、T看護婦が「スイッチがおかしくなっているんです」と答え、それに対してその患者が「修理はしてもらえるんでしょうか」と言ったら、T看護婦はいきなり「依頼中です!」と大声で叱りつけるように言った。みんなそれでびくっとしていた。なぜそんなに叱りつけるような言い方をするのか。私には、単に看護婦が自分のイライラしをぶつけているようにしか見えない。看護婦のいらいらは患者に伝染する。確かに看護婦はストレスのたまる仕事かもしれないが、それを患者の前に出してしまっては、プロではない。看護婦の仕事は「看護」であるはずなのに、その逆をおこなっている。他の看護婦にもそういう人がいる。なんとかならないだろうか。

「道は開ける」を読み進める。「悩み」の章が3つ続いた後に、「平和と幸福をもたらす精神状態を養う方法」に入る。そうだ、そういう章もあったんだ。改めて目次を見ると、他にも「批判を気にしない方法」「疲労と悩みを予防し心身を充実させる方法」なんてのもある。そうそうあったあった。すっかり忘れていた。「疲労」の予防にもちゃんと書いてあるんだった。まだ再読していないので内容はわからない、というかすっかり忘れている。

「平和と幸福をもたらす精神状態を養う方法」を読んでいくと、うんうんなるほど、どっかで読んだ気がする、と思っていると、基本的な考え方は、例の「宗教関係」の本とほとんど同じではないか。そうだよ、こういう風に書いてくれれば納得するんだがなぁ。とりあえずこの手の本を繰り返し読んで、どうにか実生活に採り入れる方法を考えよう。

夜は卓球。以下省略。

20:00になった。みんなは服薬だが、私は日記を書いている。これを書いたら就寝時間まで「道は開ける」を読み進めよう。明日は午前中に駅前まで買い物に行くし、洗濯もしたい。晴れるといいな。

昨日、昼間にあれだけ寝たのに不思議とよく眠れた。自分の心を洗い流すかのように、浄化作用が働いたかのように。21:00消灯後、寝付いたのは22:00をまわってから、といつもより時間がかかったが、途中2:00に一回目が覚め、次に5:00に目が覚めた。割とぐっすり眠れたような気がする。5:00からはもう眠れなかったが、これだけ眠れば十分だ。しかし、ホールには出ていかずにずっとベッドの中でじっとしていた。一度出ていくと、また昨日のように眠たくなってまた寝てしまい、また起きられなくなるのが怖かったからだ。

5:30頃、おそるおそるメールチェックする。もう非難のメールは来ていないので、安堵する。昨日「MLでは説明できない事情」を説明したメールを送ったG氏からは、「あんまり自分をいじめないでね」と返事が来ていた。自分をいじめてしまうのは、やはりよくないのだろうが、自分で自分を赦すことができるほど、まだ自分の精神状態は安定していないし、悟りを得ているわけではない。

5:45頃、ホールに行ってコーヒーをいれ、一服する。すでにたくさんの人が集まっている。煙草を一本吸ってコーヒーを飲んだ後、洗面所へ行くと、もう待ち行列状態だった。少し待って洗面をすませ、病室に戻る。と、ほどなくして6:00になり、起床を知らせる放送があった。これから二度寝しないようにしなくては。なんとかして起きている状態を持続しよう。

なんとか不安定ながらも起きている。今は朝食を食べ終わったところだ。「鬱は自覚できるが躁は自覚できない」どうしたらいいのか。

ヒーリングのCDを聴いたあと、一人でオカリナを吹きに丘へ行く。その後戻ってきた。台風の影響で、雨は降ってないが風は強い。少し落ち着いてきたが、まだ元気はなく、無理して出かけようと思えば出かけられなくもないが、どうしようかまだ迷っている。無理は禁物だろう。

結局外出は取りやめ、無理のない範囲で日課をこなすことにした。今日は木曜日なので午前中は体育館レク。しんどくなったらやめようと思っていたが、やっているうちに頭のもやもやが取れていき、すっきりしてきた。スポーツはいい。やっている間は嫌なことも忘れられて、それに集中でき、体を動かすことによって全身が活性化し、好循環を生み出すような気がする。

病棟で最年少のサーファー系A君が退院していった。みんなで迎えの車まで見送りに行った。みんな次々と退院していく。同室のKさんも今月いっぱいで退院する予定だと行っているし、向かいの部屋のKさんも退院に向けて体力をつけるために毎日ウォーキングに行っている。私はいつまでかかるのか。入院して1ヶ月半以上過ぎたが、まだこんなにぶり返しているようでは、まだまだ先は長いだろう。あせってもしかたがない。入院費を今日支払ってきたが、この前は保険金で儲かるなんて喜んでいたが、儲かるどころの入院期間では済まないかもしれない。いいや、この際お金のことは忘れよう。ある程度の貯金はある。そう言えば、年間の医療費が10万円を超えたら、何か控除があるはずだ。その手続きについては、まだ早いかもしれないが一応確認しておいた方がよいだろう。そういうときのために、すべての医療費の領収書はとってあるのだから。

昼から例の「宗教関係」の本を読み進める。途中眠くなってうとうとしてしまったが、最後まで読み終えた。書いてある本質、ものの考え方はいいのだが、やはり古い文体と、同じことを表現を変え例えを変え何度も何度も繰り返して書いてあるのに閉口する。もっともこれによって人はマインドコントロールされていくのであろう。「単純な繰り返し」はマインドコントロールの第一歩だ。私もここに書いてあるものの考え方を、今読んで理解するだけでなく、日常生活に取り入れようと思うと、やはりマインドコントロールされる必要があるのだろうか。ここに書いてある考え方だけを頭に植えつけられるのであればいいが、この宗教そのものに洗脳されるのはまっぴらごめんだ。最後まで読み終え、裏表紙にある「全集」の紹介を見て、この本が40巻あるうちの1冊に過ぎないことを知る。これらを全部まじめに読めば、マインドコントロールされるのであろう。

次に何の本を読もうか迷ったが、「アダルト・チルドレン完全理解」を読むことにした。前の「アダルト・チャイルドが自分と向き合う本」とは違って、単にアダルト・チルドレンや共依存について解説した本だ。自分はACだと思っているし、それについて深く知りたい、共依存についても知りたい。カーネギーの「道は開ける」の再読はこの後にしよう。

夕食後、主治医と面談する。特に「相談」というわけではなく、自分の状態の変化について、直接自分の口から伝えておきたかっただけである。私が調子を崩していることは看護婦を通じて知ってはいるだろうが、看護婦の観察ではわからないようなことを「報告」しておきたかったのである。朝、起きようとした夢を何回も見たこと、調子がいいやと思ってコンピュータ関連の雑誌を読みまくっていたときが、実は自分にとっての「躁状態」つまりハイテンション状態で、そこで無理をしてしまったかもしれないということ、そしてその手の雑誌を読みまくっているうちに「早く職場復帰しなければ」というあせりが出てきてしまったかもしれない、ということを伝えた。あせらずに行こう。「あせらない」「調子がいいときほど慎重に」を自分の標語にしよう。

ACの本を読み終えた。読みやすかったので一気に読んでしまった。まず驚いたのは、「ACとは医者やカウンセラーが診断する客観的なものではなく、『自分がACだと思ったらAC』だという、きわめて主観的なもの」であるということ。この本の最初の方に書かれているACの特徴を読んで、やっぱり「自分はAC」だと確信した。さらに父親もACではないか、そう思った。

驚いたことに、ACを回復(病気ではないので治癒、治療とは言わないらしい)するための、「ACの12のステップ」というのが紹介されているのだが、そこに「自分で理解している神、ハイヤー・パワー」というのが出てくるのだ。ここにも「神」が出てくる。だが、それは特定の宗教でなく、「自分で理解している神」である。結局人は自分の潜在意識に働きかけ、自分自身を変えようとするとき、自分の中にあって、なおかつ自分ではない「何か」に心を委ねる、ということがどうしても必要になってくるらしい。それは私が考えている「人間に備わっている未知のパワー」を引き出すために、どうしても不可欠な概念のようだ。私の場合、「自分で理解している神」とは、上に書いたそのもの「自分の中に備わっているはずの未知のパワー」としか言いようがない。

著者の女性は、中年向けのACのミーティングを中心に活動しているため、女性向き、中年向きの内容や事例が多かったが、割と参考になった。読むだけで少しは楽になれたかもしれない。「ACはなんでも人のせいにしていると言われますが、人のせいにすればいいと思います」などと書いている。ACは自分で背負い込むものが大きすぎ、人のせいにできなかった人なので、正々堂々と人のせいにして自分が楽になればそれでいい、そういうことだそうだ。そして、私が一番「なるほど」と思ったのが、実は「あとがき」にある以下の言葉だった。

「戦争もない、飢えもない、政治闘争もない。でも人は情緒的に殺されることはあるし、みずから感情を抹殺しないと人格が破壊されることもあるのです」

私の育った家族は、間違いなく機能不全家族である。そして兄弟全員がACだろう。それはいろんな形で出ている。私は多分人格障害ではないが、私以外の三人は人格障害だろう。特に三男は境界例であり、もっとも顕著である。この本を両親にも送って読んでもらおう。

さて、次はどの本を読もうか。カーネギーの「道は開ける」を読むか、勇気を出して「原家族ワーク」を進めるか…。そういやカウンセリングが受けられるかどうか、さっき主治医に確認するのを忘れた。まあ、向こうから言ってこないのだから、まだ確認がとれてないのだろう。

昨日の日記を書いた後、メールチェックをすると、私が出した「ウイルス防災訓練」のメールに反応して、山岳会の会長がMLのみならず、他の山岳関係の各所に警告メールを出している。私はそこで自分のミスに気づいた。「これでは大騒ぎになってしまう」幸いなことに会長が関係各所にBccでなくCcでメールを出していたため、直接相手に説明と謝罪のメールを出したが、そこでタイムリミット。MLにも改めて説明のメールを出そうと思ったが、就寝時間に間に合わなかった。そのまま不安を抱えつつ、眠剤を飲んで床につく。

そして起きる。今日も昨日と同じようなパターンだった。夜中に2、3回目が覚めたあと、4:00にいったん喫煙所に出てきてメールチェックをすると、昨日の「デマウイルス」についての非難のメールが来ている。予想されていたことだが、改めてMLに対して説明と謝罪のメールを出した。その後は、昨日と同じくなんだかまた眠くなって寝てしまい、朝になっても起きることができなかった。

なんだか入院前の状態に戻ってしまったようだ。会社に行けないときのパターンの1つに似ている。今日は「半覚醒状態」はなかったものの、6:00の起床の合図を過ぎても眠たくて起きれなかった。半分起きてはいるが、半分寝ている。ラジオ体操が始まる合図でなんとか起きて、のろのろとラジオ体操をこなし、朝の薬を飲む。そしてのろのろとこれを書いているが、まだ半分頭は寝ぼけている。どうしたことだろう。

朝食を食べた後も眠いというかだるいというか、ずっとベッドに横になってぼ~っとしている。今日はシーツ交換だ。何とかシーツ交換くらいは自分でできた。でもそれをやっただけでまた疲れた。今日は外出して、ちょっとだけ職場にも顔を出す予定だが、行けるのだろうか。出発までにはまだ時間に余裕がある。もう少し休んで様子を見よう。

だめだ。いつの間にか10:30だ。ずっと寝ていた。なぜなんだ。頭がぼ~っとする。会社に行けなかったあの頃と同じ感覚だ。そして今日も会社に行けない、これでは。とりあえず「職場に顔を出す」はずだったが「体調不良で無理」ということを連絡する。

その後はずっと寝ていた。11:00の服薬の放送が入っても起きれず、看護婦さんが呼びに来てやっと飲みに行った。12:00の昼食も同じで、看護婦さんが呼びに来た。なんとか昼食を食べたが、その後もずっと寝ていた。今日は入浴日で、やはり看護婦が呼びに来たが、起きることができずに風呂にも入れなかった。16:00の服薬はなんとか自分で起きていったが、その後もまたずっと寝ていた。途中なんとかメールチェックをすると、まだ非難のメールが来ている。また謝罪する。これも鬱に陥った原因の一つだろうが、それだけではない気がする。考えてみれば、昨日まであんなにコンピュータ雑誌をむさぼり読んでいたのは、また「躁状態」に陥っていたのだ。「ウイルス防災訓練」の社会的影響を予測できなかったのも、躁状態のため、また判断力を失って突っ走ってしまったためだろう。しかし、そのことはMLでは説明できない。ただ自分の非を認め、謝ることしかできない。「またやってしまった」その自己嫌悪が強く、自分を戒めるため、「自分に対する謹慎処分として、会の活動への参加を半年間自粛します」そうメールを送ったら、「気にする必要はないですよ」そういうメールが去年の会長のG氏から帰ってきた。彼は私の日記もずっと読んでいてくれた人で、私の躁鬱のことも読んで覚えているかもしれない。「MLには説明できないけど、こういう状態だったので」との旨をメールで伝える。自己嫌悪の念は強く、その反動が今来ている。

なんとか連絡会の時間には少し回復してホールに出てきた。Kさんが「卓球やろうよ」というので、少しだけやる。それで、また少し回復した。

その後、20:00をまわってからは就寝時間までできるだけ心を休めたい。例の「宗教関係」の本を1章と少しだけ読む。寝る前にメールを読んで、また落ち込むようなことがあると怖いのでメールチェックはしない。今日はできるだけ精神状態を安定させる方向に持っていって就寝することにしよう。

地震で目が覚めた。震度は1か2の弱いくらいだろうけど、寝ていると敏感に感じる。時計を見ると4:20。起きるとするか。途中2回くらい目が覚めたような気がするが、前のように時間をいちいち覚えていない。すぐに寝入ってしまうのだ。睡眠の質がよくなってきている気がする。

ホールに出てくると、今日は4人いた。私が起きてきた直後に続々とみんな起きてきて、今では8人になっている。みんな地震で目が覚めたのだろうか。

5:00頃になって、なんかまだ眠かったので、もう一度病室に戻って寝た。1時間くらいは普通に眠っていたが、起床時間を知らせる放送とともに、久々に半覚醒状態に陥った。

「半覚醒状態」とは私が勝手に作った言葉である。眠っている状態(正確にはレム睡眠状態だろう)と、そこから少し覚醒して周りの音が聞こえている状態(おそらく催眠状態)を繰り返す。金縛りとはまた違う。金縛りには昔よくかかったが、あれは単に体が動かないだけでなく、何か締め付けられるような圧迫感を感じ、同時に「ウワ~ン」というようなノイズのような幻聴も現れる。半覚醒状態のレム睡眠状態では、ずっと夢を見ている。どんな夢かというと「う~ん、眠いけど起きなきゃ、起きて洗面して着替えなきゃ」そう思ってえいやっと起きて、はあよかった起きれた、と安心する夢で、それが眠っている状態のときである。それが少し覚醒した状態に移行すると、周りの音が聞こえ、自分の体の状態が認識できて「しまった、まだ寝てるじゃないか。さっきのは夢だったんだ。今度こそ起きなくては」と必死で起きようとする。が、体は動かない。「誰か僕を起こして~」叫ぼうとしても声にならない。そしてそのうち睡眠状態に陥り、先ほどと同じ夢を見る。これを10回くらい繰り返しただろうか。ラジオ体操も終わって朝の服薬の時間にようやく普通に起きることができた。会社に行っている頃は、毎日のようにこの状態が続いていた。「起きるんだ。起きて会社に行くんだ」強迫観念のように感じていた。自分の見る夢が、それをブロックする。フロイトの言うように「夢は眠りの守護神」なのか。この現象が出てきたということは、何か自分の中に「あせり」が出始めているのだろうか。

朝食を摂ってる間も頭はぼんやりしている。今日は無理しない方がいいかもしれない。とりあえず目覚ましのコーヒーを入れて飲もう。コーヒーも残り少ない。明日外出するので買って来よう。

コーヒーを飲んでもまだぼんやりしている。昨日の体力トレーニングの疲れのせいか、それともここ数日夢中になってコンピュータ雑誌を読みまくっていた反動か。あれも自分の好きなことをやっているとはいえ、内容が専門的で読むのに集中力がいるため、それなりに神経を使っているのだろう。今日は無理をしないことにしよう。

朝食後、しばらくCDを聞きながら休んだ後、「ウイルス防災訓練」のメールをせっせと作り始める。昨日作ったBcc同報型のメールを元に、まずqmailのテンプレート機能を使ってテンプレートを作る。添付ファイルも含めてテンプレートを作れるので便利だ。あとはせっせと、「テンプレート選択」でそれを指定してメール作成画面を開いては、グループ登録してある山岳会のメンバーを一人ずつ入力していき、最終的には同じ内容のメールが50近くできあがった。FromもToも一人ずつの、小さなサイズの添付ファイルつきメールなので、これらの送信がはじかれることはないだろうが、これを一気に送信すると、かなり時間かかるだろうな。今日の午後は何の予定もない。昼食後あたりに送信しよう。

少し調子が悪いが、作業棟へ行く。この程度で休んでいてはいかん。とりあえずやってみて、やはり少し無理は禁物、と判断したら中断して帰って来よう。とりあえず初期データを測定するが、心拍数はやはり高め。体力テストを行ったら、「6段階中の2。やや劣る」まあ、今日はそんなものだろう。体力テストだけでかなり汗をかいてしまった。そんなに大した負荷ではないのだが。

少し休憩した後、再びエアロバイクへ。20分1セットでやめておいた。今日はそれだけでも汗だくだ。その代わり、少し呼吸を整えてから、グランドへ出てオカリナを吹いた。今日は暑かったが、ちょうど建物の陰になっているところがあったのでそこで吹いた。その後病棟へ戻ってきたら、だいぶ気分がすっきりしていた。

昼食までまたセキュリティ関連の記事を読む。こういう記事が読めるということは、また調子があがってきたということだ。朝は頭にモヤがかかっているようだった。そういうときは、無理にそういう本を読んでも、ぜんぜん頭に入って来ずに、何回も同じところを繰り返し読んでいることが多い。

昼食後、山岳会のメンバーへ向けて「疑似ウイルスメール」を送出する。差出人の名前は「やまのぼらー」、件名は「必見!役立ち情報」、本文は、

 突然のメール失礼します。
 あなたに役立つ情報を満載した情報をお届けいたします。
 ぜひご覧ください。

の三行で、添付ファイルとして「役立ち情報.html」がくっついている。さて、何人ひっかかるだろうか。

その後、再びセキュリティ関連の記事を読もうとしたが、飯を食ったばかりか、なんだか目がとろ~んとしてきた。頭もまたぼんやりしてきた。無理して読むことはない。少し横になってCDを聞いて体と頭を休める。でも眠ってしまったら夜に眠れなくなるかもしれないので、注意しなければ。

しばらくCDを聞いたあと、起きて売店に行き、飲料と「週刊アスキー」を買ってきた。頭の回転が鈍いときは、1ユーザとしてこれくらいの軽い雑誌を読む方がいいだろう。アスキーを読む前にメールチェックすると、山岳会のML宛てに今月の集会の案内が来ている。

アスキーを流し読みした後、調子がよくなってきたので日経バイトの記事「ファイアウォールの可能性と限界」を読む。う~ん、またまた勉強になった。アプリのバグやセキュリティ・ホールを突いた攻撃はいくらファイアウォールでも防御しきれない。アプリ設計者にもセキュリティホールを作り込まないための知識、そして意識が必要だ」そう感じた。うちの会社のアプリ設計者は、どこまで考えて作っているだろうか。

もう20:30だ。就寝準備に入ろう。21:00までは、そうだな、また例の「宗教関係」の本でも斜め読みするか。