TOPに戻る
鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:メンタルヘルス

先月にODしたときに、搬送された病院のお医者様が私のお薬手帳を見て、

「毎日がプチOD状態」

と言った。それくらい大量の薬を毎日毎日飲み続けている。

それなのに、全く状態がよくならないのはどういうことか。

先日おうちに来ていただいた友だちが、いろんな情報をくれた。そのうちの1つを紹介しておこう。

まず、日本の精神科医療では多剤投与が多く、どんどん薬が追加されていくのが当たり前(自分もその状態)だが、その方針が見直されつつあるらしい。

私は以前主治医に、

「欧米では基本的に単剤投与らしいですが、こんなにたくさんの薬は必要なのですか?」

と聞いてみたことがある。そのときの主治医の答えが、

「単剤で効果が出たらいいんだけどね。1種類で目立った効果がないから、他の薬と組み合わせるんだよね」

とのこと。効果がないなら他の薬を足すのではなく、単に変えればいいのでは?と思うのだが、それ以上つっこんでも仕方がないと思ったのでやめておいた。この先生は患者の話をよく聞いてくれる。聞いてくれるが、最後は薬を増やしたり変えたりするだけなのだ。

私の場合、抗鬱剤だけでも三環系を2種類と、SNRINaSSA、精神安定剤ではベンゾジアゼピン系を2種類、チエノジアゼピン系、そしてその他に抗てんかん薬、様々な系統の眠剤を服用している。いったいどの薬が効いていて、どの薬が効いてないのかさっぱりわからない。

薬を飲み忘れたら調子が悪くなることが多いのだが、それは薬の効果が切れたからか、それとも薬物依存の禁断症状なのかもわからない。こんなにたくさんの薬なんて意味がないと思ってても、急にやめることはできないのだ。

それが最近、日本うつ病学会で薬偏重の治療を改めるような指針が示されたらしい。読売新聞に記事が出ていたらしいが、それと同じ物がYOMIURI ONLINEに掲載されている。

「うつ病学会が治療指針・・・薬偏重やめ面接基本に」

この元ネタのガイドラインが、日本うつ病学会のサイトにある。これ自体はかなりのボリュームがあるので、私もまだ目を通せてはいない。

上のYOMIURI ONLINEでは、この他に、

「抗不安薬依存 深刻に」

の記事でもこの指針を紹介している。

しかしこれはまだ学会レベルの話。これが、お役所やらなにかしらのしがらみを乗り越えて、臨床レベルまで降りてくるのか。降りてくるとしても、いったい何年後になることやら。

だが、自分もただ手をこまねいているわけではない。「じゃあどうする」ということに関するヒントをいろいろ彼女から得たので、それはおいおい紹介していこう。

そう言えば彼女から聞いたものだけではなく、自分が以前から購読している「精神科医のブログ」にときどき登場するものもある。普通の精神科医では使わないようなものである。逆にこれについてなにか知ってないか、彼女に聞いてみようっと。

私のように病気を抱えていると、いろんな人が「これが鬱に効くらしいよ」という話を持ってくる。アトピーがひどかったときもそうだった。「実際に誰々が治ったから」「偉い先生が薦めているから」などと、健康食品やらサプリメントやらなんとか還元水やら怪しいスピリチュアル系のものやら宗教やら、もう様々である。病気が病気だけに、うさんくさいものも多々ある。みんな善意で勧めてくれているのはわかるが、正直言って、

「ありがた迷惑」

以外の何物でもない。ネット上でのコミュニティでこういう話題が上がると、

「善意の押し売り」

という言葉が必ず出てくる。

いくら今の自分の状態が悪くて、医者にかかっているのに状態が好転しなくてじれったくても、人から勧められるものを次から次へと試せるかっつーの。そして、だいたいそういうものはお金がかかる。

一番最近に持ち込まれたバカみたいなやつは、プロテイン1キログラムで6,000円とか。これを毎日飲めば健康になること間違いなし、とのこと。資料をもらったが、一食15グラムずつ摂取と書いてあり、すなわち1日で45グラム、1ヶ月で1,350グラム。金額に換算すると8,100円。奥様もご病気ならご一緒に、と勧められたら(たいてい勧められる)、二人分で16,200円。もうアホとちゃうかと。そんなわけのわからないものに払う金などない!

こういうときに一番に頭を悩ませるのが、「どうやって波風立てずに丁重にお断りするか」ということである。向こうからしたら、せっかくいいものを紹介したのに、という気分になるのは当然だろうが、取捨選択する権利はこちらにもある。

私の場合、基本的には、

「現在、専門医の方針にしたがって治療中であり、他のものを併用すると、状態が良くなっても悪くなっても、どちらの何が原因なのかもわからなくなるので、今回のお話はご遠慮させていただき、今後また何かありましたら参考にさせて頂きます。」

という感じでお断りするのだが、なかなか相手も食い下がってくることが多く、「そう言わずに、とりあえず1ヶ月でも試してみませんか」と反撃する。正直、疲れる。最近は本当に経済危機なので、上のお断り文に加えて、「そういったものを試す金銭的な余裕はありません」とつけ加えるのだが、それでもしつこいと、

「誰々の病気がよくなったとか、何人の人がよくなったとか、よくなった人だけの情報は信頼できません。何人中何人がよくなったのでしょうか。薬の治験で例えれば、プラセボを用いた二重盲検法といった方法で、科学的で統計的に有意差があるという、効果の裏付けとなるデータをいただけないでしょうか」

と突っ込んだりする。

正直、最近こういうのが立て続けに来て、もううんざりである。なんでメンタルな病気の人を、メンタルに追い詰めるかなあ。

今日も昨日と同じように、午前中は低め安定。そんなにしんどくはなかった。
昨日は昼食中に通院日だったことを思い出して、それから急激に鬱に落ちた。

今日はその真逆のことが起こった。 昼食を食べてそれほど時間は経ってないとき、「悪魔の叫び」が聞こえてきた。

「や~きい~も~、い~しや~きいも~」

脊髄反射的に財布を手に取り、玄関を出て団地の階段を駆け下り、猛ダッシュ。自分、無類の焼き芋好きなのだ。しかも、石焼き芋は格別である。今まで何回も、この悪魔の叫びが聞こえるたびに意識を失い、気がつくと焼き芋を食べている自分がいた。

500円分くらいください」

駄菓子屋に来た子どものように、手に500円玉を握りしめて、その悪魔に渡した。するとその悪魔は、

「いっぱい余っているから、おまけするよ」

と言って、こんなにも石焼き芋をくれた。

 石焼き芋

 これで一週間は暮らせる。(んなこたーない)

動いたおかげで、体が軽くなった。
悪魔は実は天使だった。(SEKAI NO OWARIの歌詞みたいだな)

ありがとう、石焼き芋屋さん。

今日、午前中はそこそこ安定していた。安定していた、と言ってもずっと鬱ベースな私なので、「そんなにしんどくはない」というのが実際のところだが。

しかし、昼食時に妻から「今日の通院は・・・」と言われた時、ハッとした。そうだ、今日はメンタルクリニックへの通院日だった。予約は15時。昨日はちゃんと把握していたのに、今日になってからすっかり忘れていた。

普通はそこから外出する準備をしつつ、家を出る時刻まで何かして時間をつぶしているところだが、今日は違った。いきなりドスンと鬱に落ちて、私は布団に倒れこんだ。そしてそのまま固まって動けなくなった。

出発する時刻になっても自分は動けず、やむなく妻に薬だけもらってくるように依頼した。わざわざ行ってもらったわけではなくて、妻も同じく通院なのだ。最近は夫婦ふたりで行って、ふたり一緒に診察してもらっているので、今日は妻の診察のついでに、ということになった。

しかし、なぜ急にそんなに鬱に落ちたのか。やはり「外に出る」ということ自体に相当なプレッシャーを感じているようだ。本当に朝からずっとしんどいとき以外は、これまで病院にはなんとか行っている。行けているのは、前もって心の準備ができているから。今日は直前まで忘れていたから、自分の心と体は活動を停止してしまったのかもしれない。

病院すら通えなくなったらおしまいである。来週にまた予約してもらったから、次の月曜日にリベンジするのだ。

先日友だちが「考えない練習」という本を紹介してくれた。調子が悪い上に、無駄に時間がある最近では、なんだか自分で余計なことを考えすぎて、勝手に悩んで勝手に苦しんでいるような気がする。そこで、紹介されたこの本を買って読んみようとした。

 しかし、1ページ読んだだけで限界。頭がオーバーヒート。と言うかそれ以上読むのを脳みそが拒否している。

それほどに自分の頭は錆び付いている。頭の中に常に白い霧がかかっているような感じで、思考能力がかなり落ちている。自分の専門分野であるIT関連の本や、新聞の記事などは読めるのだが、こういう「頭を使う」「考えさせられる」本が今は全く読めなくなっている。そう言えば最近何年も本を読んでいない。昔は暇があったら本屋に行って、おもしろそうな本があるととりあえず買って、いわゆる「積ん読」状態だったくらい、本の虫だったのに。

そして今日の朝から、また余計なことがぐるぐる頭の中で回りだした。

「自分は何のために生きているのだろうか」

今まで幾度と無く自分の中で繰り返されてきたこの疑問。

昨日の日記では、

この1ヶ月の間に、たくさんの人が自分のことを気にかけてくれていることを実感した。自分はまだ死んではならない。その人たちのためにも。

と書いた。では自分はその人達が悲しまないために生きているのか。それはただ「まだ死んでない」だけのような気がする。そんなことではない。

今、自分は何もしていない。働きもしていなければ、教育を受けているわけでもない。外に出ることも殆ど無く、ただ毎日を怠惰に過ごしているだけで、何の社会的貢献もしていない。誰かのために役に立っているわけでもない。

自分の中では、焦燥感や孤独感、無力感、失望感、罪悪感が混ざり合っている。

みんな平等に歳を重ねていく。自分の友だちは、仕事だったり育児だったり、歳とともにいろんな経験を積み、人間として成熟していく。そうして新しい経験で上書きされた頭の中では、昔のことは陰を潜めてゆく。

その一方で自分ときたら、何にもしていない日が多い。ひねもすのたりのたりしているばかり。何の社会的経験もつまずに、全く精神的な成長もなく、どんどん置いてけぼりにされていく焦燥感に孤独感。調子が悪くて何にもできない無力感と失望感。そんな自分を責め続ける罪悪感。ただただ郷愁に浸り、過去のことをどんどん思い出しては悔やんでいる。過ぎ去りし過去の記憶のほうが鮮明になってきている。

今、自分にできることをやればいい。人はそう言う。しかし、何もできないのだ。まず「外に出る」「体を動かす」ことが、精神的な快方につながり、好循環をもたらすことは重々承知している。わかっているけど、できないのだ。なぜできないかと問われると答えられない。あえて答えるとすると、

「そんな高いハードルを超える気力が今はない」

それだけしか今は言えない。ほんのちょっとの頑張りで、物事が良い方向に向かって行くかもしれないのに、なんにもできない。最近はテレビすら観ていない。新聞もあまり読んでない。ずっとゲームをやっている。もうニート以下である。

いつも同じことを考えて、堂々巡りになる。親からもらった大切な命である。1ヶ月前には自分で捨てようとしたものの、妻が救ってくれた命でもある。もう簡単に捨てることは許されない。では、自分は何のために生きているのだろうか。あるいは生かされているのだろうか。答えは見えない。とりあえず今、自分は何をどうすればよいのか。それが全く見えない。誰か教えて欲しい。

ということが毎日ぐるぐる頭の中を回っている。本気で「考えない練習」をしないと、何かが崩壊しそうだ。