心配していた体調も何とかなり、友だちとも久しぶりに会って話ができたし、法事も無事に終わった。友だちは2週間前に緊急招集をかけたのだが、自分を含めて9人も集まってくれて、プチ同窓会状態だった。何度も何度も書いてるが、友だちは財産である。
法事もつつがなく終わり、やっと母にお線香をあげることができた。とりあえず最後まで(まだ大阪だけど)体力がもって良かった。
それにしても・・・、
7歳児と3歳児。
子どもは風の子元気な子。
疲れた。
カテゴリー:日々の出来事
なんとか無事に
あの日も雪だった
横浜は珍しく雪。どうやら関東一円は大雪のため、いろいろ大変なことになっているようだ。
横浜に雪が積もったのは久しぶりのような気がする。何年ぶりだろう。
この雪景色を見ると、母が亡くなったときのことを思い出す。
一昨年の2月、入院中の母の容態が悪化したとの知らせを受けて、かなり調子が悪い中、重い体を引きずって大阪へ帰り、病院へ直行。
母は、前に会ってから1年も経ってないのに、まるで骨と皮だけのようにやせこけていた。最後には精神的にも少し異常をきたしていたが、私が来たのを喜んで、
「○○(私の名前)が来てくれた。○○が来てくれた」
と無邪気な子どものように叫んでいた。
しかし、30分くらい話したところで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。
母はいつも私の体調のことを気遣ってくれていた。心配ばかりかけていた。
私が横浜からはるばる駆けつけて、疲れているだろうから早く休みなさい、そういう親心が、少し歪んでしまった精神というフィルターを通して、こんな言葉になったのだろう。あの優しかった母が、智恵子抄の一節のように壊れていくのを見るのが切なかった。
翌日、兄夫婦の家に泊めてもらった私は、兄と一緒に再び病院へ行った。その日は今日の横浜と同じように、かなりの雪が降っていた。兄とふたり、駅までの急な坂道を、転ばないように気をつけながら登っていった。
その日も少し話しただけで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。
その後、少し容態が安定したと看護師から聞いて、その翌日に横浜に戻ることにした。帰るときにまた病院を訪れ、
「僕、いったん横浜に帰るからな。また来るから」
と言ったら、母はその日も、
「あんたは早く行き」
と言っていた。
私はおとなしく横浜へ帰った。
その翌日の夜10時頃だったろうか、母が亡くなったと兄から連絡を受けた。
兄は、
「ありがとうな。ほんま、ありがとうな」
と私に繰り返して言った。
自分は震える声で、
「お兄ちゃん、いろいろ大変やと思うけど、よろしく頼むな」
と言うのが精一杯で、その後はずっと泣いていた。
夜遅くに亡くなったから、お通夜は翌々日くらいになるだろう、と思って休むことにしたのだが、0時頃に再び兄から電話がかかってきて、
「明日のことやけど」
と連絡が入り、お通夜が午後6時から、納棺式は3時からと言われた。そんなにすぐにやるとは思っていなかったので、私と妻は急いで大阪へ帰る準備をした。しかし、私はかなりしんどいなか横浜と大阪を往復したばかりで、かなり疲労が蓄積していた。
横浜から午後3時に間に合うように大阪へ行くのなんて、普通ならどうってことないのだが、翌日になっても疲労困憊な私が動けるようになったのは、お昼近くになってからだった。なんとかタクシーをつかまえて新横浜駅まで行き、実家の近くの斎場へ急いだ。しかし到着したのは3時半。納棺式は終わっていた。末期の水を取ってあげることができなかった。
それから後は、とんぼ返りでくたくたになった体をひきずってお通夜を終え、翌日の葬儀も終えた。私は抜け殻のようになっていた。
その後は四十九日に帰って以来、一度も大阪に帰っていない。ずっと調子が悪く、一周忌にもお盆にもお彼岸にも帰れない日々が続いた。一度もお墓参りに行ってない、罰当たりな息子である。
来月には三回忌がある。母には悪いが、今回はあえて行かないつもりだ。理由は2つあるが、ここには書けない。やがて妻も私も調子が安定した頃に、帰って墓前に花でも手向けることにしよう。
まだ雪はこんこんと振っている。
仲間との絆
今日、我が家に友だちが遊びに来てくれた。嬉しいことだ。
以前に所属していた山岳会の仲間で、とりわけ仲が良かった友だちの一人。そんな仲の良い友だちだったのだが、ずっと会ってなかった。自分は2001年に療養のために入院して、それ以降は山岳会のイベントに参加しなくなり、そのまま休会し、数年後に退会してしまった。山岳会の仲間たちとはすっかり疎遠になってしまっていた。
彼女とも数年前にメールでやり取りしたのだが、それを最後に連絡をとってなかった。最後に会ったのはいつのことだったろう。2001年の入院のときに面会に来てくれたのだが、そのとき以来か、その後2回くらい総会に出席したので、それ以来かもしれない。
しかし、かつて共に汗を流して2000メートルを超える山々を登った仲間である。その絆は強い。本当に久しぶりだったのに、まるで先月まで一緒に活動していたような、そんな気分だった。昔話をはじめとして話は尽きず、あっという間に日が暮れ、あれ、もう4時間も経ったの?という状態に。楽しい時間ってのはあっという間に過ぎてしまうんだよなあ。
本当に自分は友だちに恵まれている、とつくづく思う。特に一緒に山を登った友だちは、学生時代の友だちとはまた違う「絆」を感じる。「友だち」というより「仲間」という方がしっくりくるような気がする。
皮肉なことに、自分が自殺未遂なんてやらかしてしまったため、いろんな方面に心配をかけてしまったのだが、それをきっかけに疎遠になっていた人たちと、再びコミュニケーションを取る機会が増えた。こんなブログ、いったい誰が読んでくれているのか自分ではわからない。でも、たくさんの人が見守ってくれている、そう考えると勇気が湧いてくる。
ありがとう、友よ。ありがとう、仲間よ。皆がいるから前を向ける。皆がいるから歩いていける。たとえ亀の歩みでも。
遅まきながら初詣&初通院
今日、やっとこさ初詣に行った。妻が風邪をこじらせていて、正月からずっと寝込んでいた。ようやく外に出られるようになったので、毎年行っている弘明寺へ初詣。身代わり地蔵の頭をなでて、自分の身代わりに鬱になっておくれ、と手を合わせる。毎年同じことを書いているような気がする。
おみくじをひくと、今年は吉。
吉だが、書いている内容は大吉でもよさそうな大盤振る舞い。何もかも全てうまくいくようなことが書いてある。去年は大吉だったけど、けっこう大変だったぞ。ちなみに妻は凶。ちょっとへこんでいた。私は2006年、2008年、2010年と隔年で凶が出ていたので、去年(2012年)も出るかも、と思ったが大吉だった。今年も吉だったし、どうやら引きが弱くなったようだ。そういう問題ではないか。
その後、メンタルクリニックに移動。今年最初の通院。いよいよ減薬がスタートする。診察で主治医と話した結果、ノリトレンを1日100mgから70mgに減らし、寝る前に飲んでいたデパス細粒3mgを、錠剤2mgに減らしてくれた。まずはこれで調子がどうなるか、様子を見ていこう。焦らないように気をつけなければ。
今まで寝る前に毎日飲んでいたデパス細粒3mg。3mgというと1日のMAXである。それを錠剤でなく、細粒で飲んでいたというのが怖かった。闇で売りさばいたら高く売れるかもしれない危険な薬だった。やっとこさ、こいつからおさらばできる。しかし、デパスは依存性がある。そう簡単にいくのだろうか。
大晦日イブなう
自分が風邪をひいたあと、妻がノロにかかって、その後また風邪をひいて、今夜になってようやく落ち着いた。自分も風邪は治ったのに今ひとつ調子が出ない。気がつけば今年も残すところあと一日。大掃除も何もやっていない。
思い返せば、年末年始はいつも調子を崩している。今年の場合は、年始から年末まで、という感じだが。まあ、要するにコンスタントに調子が悪かったのだ。
それにしても今年は慌ただしかった。県営住宅の抽選に当たって引っ越したものの、手続きやらなんやらが煩雑で、書類を山のように提出して、さらに、今では当たり前に備えつけられている類のものが片っ端からないので、自腹で風呂を設置したり、網戸は自分で作ったり、もう大変だった。
その頃は必死で何とか引越しまで終えて、その後の新生活の準備で足りないものを買ったり、まだ今より元気だった。一段落して新しい環境に慣れたらまた職探しを始めようと思っていたのに、その後はずっと調子は悪いし、挙げ句の果てに自殺未遂もしたりして、散々な一年だった。来年は少しでも事態が好転することを願う。
一年後の自分は、いったいどういう生活を送っているのだろうか。まるで見当がつかない。自殺未遂の発端となったあの日から、今でもまだ自分の精神状態は不安定だ。また希思念慮に襲われたらどうしようか、自分を見失って何かやらかさないか、今から不安である。
とにかく、一日一日を大事に過ごす。それで精一杯なのだから。