TOPに戻る
鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2019年2月16日

今日は9時起床。屋上の工事の音で起こされた。すぐ天井裏でドリルを使っているかのようだ。土曜日もやるの~?

午前中はいつもどおりネット巡回して動画を観て本を読んでいた。昼から妻がカトレアプラザに行きたいと言うのでお出かけ。カトレアプラザと言ってもぴんとこない人が多いと思うが、伊勢佐木モールの松坂屋のあったところにできた商業施設である。ゆずが昔路上ライブをやっていたあの場所である。わからんか。

その前に天下一品で腹ごしらえ。ふたりで来たのは久しぶりだ。いつもひとりで中途半端な時間に来るのですいているのだが、土曜日のお昼どきだったので混んでいた。いつもは見ないファミリーも何組かいた。今日はガッツリと豚キムチ定食。

天下一品の豚キムチ定食

天下一品の伝票って暗号だな。

天下一品の伝票

そしてカトレアプラザへ。妻のお目当ては小さな手提げバッグらしく、ダイソーフルルとミカヅキモモコを見たいとのこと。

ダイソーフルル。ダイソーの「ファンシーなものメイン」な店。

ダイソーフルル

ミカヅキモモコは300円ショップ。ここもファンシーなものメインなお店。

ミカヅキモモコ

カトレアプラザには時計のような謎の物体が壁にかかっている。時計ではないと思う。1の前がBなので、多分階数表示だと思うのだが、ここは3階までしかないし、これがかかっているのは2階なので2と3の間を指しているというのも謎である。

謎の物体

無事お目当てのバッグをゲットした後、昨日妻が母親に「近所の公園に桜が咲いている」という話を聞いてきたので、妻の実家の近くの公園へ行ってみたら、確かに咲いていた。義母によると河津桜らしい。早咲きの桜は他には熱海桜などがあるとのこと(今日の「王様のブランチ」情報)。

河津桜

河津桜

河津桜

そしてスーパーで買い物して帰ってきたのだった。今日は昨日と打って変わって日差しもあって暖かかった。このまま続けばいいな。

DA PUMP「桜」。「USA」が「洋」ならこちらは「和」な曲。「奈落だって裾だって人生の舞台」という歌詞がいいな。PRムービーなので途中で一度切れます。

今日は母の命日。今から8年前、2011年2月16日に母は69歳で亡くなった。早すぎた。もっともっと生きてほしかった。私は何一つ恩返しができてないのだ。母は最後の最後まで病床で私のことを心配していたらしい。ずっと心配ばかりかけてばかりいた親不孝者だった。「親孝行したいときには親はなし」という言葉が突き刺さる。母が亡くなったあとは喪失感でいっぱいだった。改めて母の偉大さを痛感し、母に感謝した。

うちはアニバーサリーみたいなイベントとは無縁の家族で、昔から父の日とか母の日とかに何もやっていなかったのだが、ある母の日、中学生の時だったか大学生の時だったか忘れたが、スーパーで花を売っているのを見て、ふとなんとなくカーネーションを1本買って帰ったことがある。母はそれをたいそう大事にして枯れるまで一輪挿しに挿していた。

母が亡くなる前年、うちの家族にしては珍しく母の日を祝う食事会が実家であった。兄や弟の家族、そしてうちら夫婦が集まったのだが、私は鉢植えの花束を持って行った。養分や水分がゲル状になって入っているお手入れ要らずのやつだ。母はそれがとても気に入って、幼稚園生だった姪が欲しがっても渡さなかった。思えばそれが最初で最後の母に捧げた花束だった。

母の三回忌のときだっただろうか、母が大切にとっていたという手紙を2通父が見せてくれた。そのうちの1通は私が母に送った手紙だった。と言ってもたいしたことは書いてない。お正月に横浜名物の崎陽軒のシウマイを送った時に、「今年もまんねりですがシュウマイ送ります。お体に気をつけてください」みたいなことを書いただけだった(実際はもう少し長い)。よく考えたら母に手紙なんてほとんど書いたことなかったので、そんな手紙でもとても大切にしてくれていたのだろう。兄弟の中では私は一番かわいがられていたし、遥か遠くの地でこんな病気になった私をいつも心配していた。最後の最後まで心配かけっぱなしだったことを申し訳なく思った。

天国の母は今でも私のことを心配しているかもしれない。いつになったら安心させてあげられるのだろうか。今の自分にできるのは、一日一日を一生懸命に生きることしかないのだ。

宇多田ヒカル「花束を君に」。宇多田が自ら死を選択した母親に捧げる曲。「普段からメイクしない君が薄化粧した」という歌詞から始まるが、これはもちろん死化粧のこと。私も次に帰省する機会があれば、母の墓前に花束を手向けよう。