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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

今日も一日寝ていたような気がする。昼頃起きて、「は〜またか〜」と思ってまた寝てしまった。一進一退ならまだいいものの、どんどん退歩しているようだ。最近は土日はでかけられることが増えたのだが、その分、平日の活動率が落ちているようだ。もっとも、カウンセリングでは「本当に自分がしたいこと、したくないことがわからなくなっている」という問題点を指摘されており、無理やり外出しても、それは決して調子がよい、というわけではないと言われている。「何もしないのは時間の無駄だし、とにかく何かしなきゃ」と思って動いているだけで、それを繰り返していては自分の心の風通しが悪いまま。心の中の葛藤は解消せず、やがて鬱という形で牙を向く。眠たければ寝ていればいい、それくらいの開き直りが必要だ。

先週のカウンセリングで「森田療法のように、何も考えずにとにかく体を動かすような方法はどうなんでしょうかね」と聞いてみたが「森田療法も最初の一週間は寝たきりで過ごし、そこで自分の内面と徹底的に向き合う」のだと言われた。方法論は違うものの、「本当の自分と向き合う」のが第1ステップにあたるのは同じようだ。とにかくその第1ステップをクリアしなければ話にならない。アルコール依存症の治療での最初のステップは、「否認の病気」ということを認識すること。鬱もまた同じかな。自分と向き合うためには、自分をいったん自分から離さなければならない。自分の力で何とかしようとするのは難しい。

いろんな本にいろんな方法論が出てくるが、その中で共通して出てくるのが「祈り」であり、そして何らかの形での「神」。これはアルコール依存症やアダルトチルドレンの回復プログラムでは「ハイヤーパワー」と表現され、悩み本のベストセラーであるデール・カーネギー著「道は開ける」では単に「神」として表現され、その他宗教系の本ではその信仰の対象である。なんでもいいのである。自分を捨て、自分をゆだねる何かが必要なのであろう。特定の宗教の神でなくていい。自分で定義した神がいれば。そういうことを入院中に他の患者からも聞いた。

私はこの「神」やら「ハイヤーパワー」なるもの、そして「祈り」ということについて、これは「プラシボ」と同じものに違いない、と感じている。「プラシボ」とは偽薬のことで、たとえばただの小麦粉を「風邪薬だよ」と言って飲ませると本当に治ってしまうとかいうことを「プラシボ効果」という。これはつまり、人間が持っている自然治癒能力というものは大きなもので、それはその力を意識しないことではじめて引き出される。自分で治そうと思うのではなく「この薬を飲めば治る」と薬の効果を全面的に信じきって、はじめてその効果は現れる。「こんな薬で治るのかいな」とか疑心暗鬼だったり「プラシボ効果で治るといいな」などとはじめから偽薬効果を期待しては効果は現れないだろう。

「神に祈る」というのも同じようなものではないのか。自分の能力だけで何とかしようとか、あるいは自分の潜在能力よ飛び出せ〜などと意識しては潜在能力は発露しない。自分を捨て、自分に謙虚になって「神様仏様なんとかしてください〜」と純粋に祈る、ということが、プラシボ効果と同じく人間の潜在能力を自分で意識している以上に引き出すことにつながるのではないか。

というのは私の勝手な仮説ではあるが、このカラクリが頭にある間は、第1ステップはクリアできないのでは、という自己矛盾に陥っている今日この頃である。いったいどうすればいいのやら。


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