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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

月別アーカイブ: 2003年4月

今日も一日何をするともなく終わってしまった。14時過ぎまで寝ていて、15時くらいから17時半くらいまで寝てしまった。

夜、自販機でコーヒーを買ったら、ピピピと音がする。当たりつきの自販機で当たりが出たのだ。自販機で当たりなんてはじめて出たが、どれくらいの確率で当たるものなのだろうか。ああ、人生当たりつき。深い意味はない。

昨日の夜もなかなか寝つけず、何度も起きてはPCにちょこっと向かってはまた寝なおす、ということを繰り返した。横になっても眠くならないのだ。その状態で眠気が来るのを待てずに、寝ることに飽きてしまう。そして起き上がってしまう。昼間はぐうぐう寝てたりするのに。眠剤も聞かなくなってきたのだろうか。最終的に寝付いたのは多分2時頃。そして起きて朝食を食べたのが5時。そしてまた寝てしまう。ここからやっと本格的に眠れるような気がする。なんなんだ、いったい。

そして今日は調子が悪い。14時過ぎても体が動かなかった。11時か12時ごろに目が覚めたとき、腹が痛かった。薬を飲んで寝たら治まった。

なんとか動けるようになり、15時過ぎに彼女と一緒に外出。彼女が見たがっていた「Moon Child」という映画を見に行った。Gacktとラルクアンシエルのhydeが出ている日中合作の映画で、あまり派手な宣伝はしてなくてどちらかというとマイナーな映画のようだが、彼女はラルクやGacktのファンなので見てみたかったらしい。大きな映画館では上映してなく、関内の小さな映画館へ。内容は、近未来に日本人が中国へ難民として流れていって、その中国の難民街を舞台に繰り広げられる、ちょっとクールで熱いチンピラと吸血鬼の物語。そして最後にはみんな死んでしまう。こう書くとなんのこっちゃわけわからんが、とにかくそうなのである。日中合作だけあって日本語と中国語が交じり合う。中国語の部分では日本語の字幕が出てくるが、中国では逆なのだろう。GacktやHydeが流暢な中国語を話すのに驚くが、彼女曰く、Gacktはもともと中国語が喋れるらしい。ストーリー的には、なんかどうでもいいという感じ。HydeやGacktのファンなら喜ぶんだろうな〜。二人が主役なのだ。いつもぼそぼそとしか喋らないGacktが早口でせりふを喋っていたりして新鮮。この映画の宣伝文句に「あの頃はいつも、笑いながら泣いてた」と出てくるのだが、その意味も結局よくわからず。

映画を見た後は関内のおいしいお蕎麦屋さんへ行って天ざると茶碗蒸しをいただく。実はこの時点でかなり疲れていた。映画を観ながら途中で飽きていたのだが、最後まで座っているのが苦痛だったのだ。それでけっこう疲れてしまった。おそばを食べた後、のろのろと家へ帰ってきてごろんと横になる。ほっと一息。映画も外で見ると休憩はできないし、字幕だと神経も少し使うし、けっこう疲れるわい。

昨日も寝つきは悪かったのだろうか。自分でもよく覚えていない。眠れないなあと思って一度起きてメールチェックなんぞした記憶はあるが、その後はすぐ眠ってしまったのだろうか。朝はいつもどおり何もできず、昼まで寝ていた。もっとも、今日のデイケアの予定は八景島のシーパラダイスへ遊びに行く、というものだったが、シーパラは入場料が高いからはじめからパス、というつもりだった。今月は結婚式やら同期会やらあって出費がかさんでいる。少しでも節約しなければ。

とは言いつつ、今日はまた新しいものを買ってしまった。ピアニカである。昼過ぎから歌の練習でもしようか、と思って楽譜を広げた。合唱団Pに復帰してから山のように楽譜を渡されて、ひーこれ全部音取りしなきゃ〜、という状態だったのだ。私は簡単な曲ならそこそこ初見がきくが、やはりそこは合唱団P、一筋縄でいかない曲ばかり。やはり音取りをするには目の前に鍵盤がないとやりにくい。実は66鍵の小型キーボードは持っているのだが、小型とはいえ1メートルくらいの大きさはあって、わざわざ箱から取り出すのはめんどくさい。その上3和音までしか出せないので、和音を鳴らしたいときには物足りない。合唱団Pでは練習で指揮者がピアニカを使っているが、これなら小さくて持ち運びも楽だし電池もいらないし和音も押しただけ出るし、なるほどこれは使えるなあと思っていたのだ。というわけで、横浜のYAMAHAへ行ってピアニカを買ってきた。難点と言えば、音を出しながら歌えない、というところか。吹き口をくわえているのでしかたがない。まあ、これはこれでかまわないか。これから暇なときには歌の練習に励もう。今年のGWは合唱団Pの合宿なので、それまでにできるだけ音取りを済ませよう。

今日も一日寝ていたような気がする。昼頃起きて、「は〜またか〜」と思ってまた寝てしまった。一進一退ならまだいいものの、どんどん退歩しているようだ。最近は土日はでかけられることが増えたのだが、その分、平日の活動率が落ちているようだ。もっとも、カウンセリングでは「本当に自分がしたいこと、したくないことがわからなくなっている」という問題点を指摘されており、無理やり外出しても、それは決して調子がよい、というわけではないと言われている。「何もしないのは時間の無駄だし、とにかく何かしなきゃ」と思って動いているだけで、それを繰り返していては自分の心の風通しが悪いまま。心の中の葛藤は解消せず、やがて鬱という形で牙を向く。眠たければ寝ていればいい、それくらいの開き直りが必要だ。

先週のカウンセリングで「森田療法のように、何も考えずにとにかく体を動かすような方法はどうなんでしょうかね」と聞いてみたが「森田療法も最初の一週間は寝たきりで過ごし、そこで自分の内面と徹底的に向き合う」のだと言われた。方法論は違うものの、「本当の自分と向き合う」のが第1ステップにあたるのは同じようだ。とにかくその第1ステップをクリアしなければ話にならない。アルコール依存症の治療での最初のステップは、「否認の病気」ということを認識すること。鬱もまた同じかな。自分と向き合うためには、自分をいったん自分から離さなければならない。自分の力で何とかしようとするのは難しい。

いろんな本にいろんな方法論が出てくるが、その中で共通して出てくるのが「祈り」であり、そして何らかの形での「神」。これはアルコール依存症やアダルトチルドレンの回復プログラムでは「ハイヤーパワー」と表現され、悩み本のベストセラーであるデール・カーネギー著「道は開ける」では単に「神」として表現され、その他宗教系の本ではその信仰の対象である。なんでもいいのである。自分を捨て、自分をゆだねる何かが必要なのであろう。特定の宗教の神でなくていい。自分で定義した神がいれば。そういうことを入院中に他の患者からも聞いた。

私はこの「神」やら「ハイヤーパワー」なるもの、そして「祈り」ということについて、これは「プラシボ」と同じものに違いない、と感じている。「プラシボ」とは偽薬のことで、たとえばただの小麦粉を「風邪薬だよ」と言って飲ませると本当に治ってしまうとかいうことを「プラシボ効果」という。これはつまり、人間が持っている自然治癒能力というものは大きなもので、それはその力を意識しないことではじめて引き出される。自分で治そうと思うのではなく「この薬を飲めば治る」と薬の効果を全面的に信じきって、はじめてその効果は現れる。「こんな薬で治るのかいな」とか疑心暗鬼だったり「プラシボ効果で治るといいな」などとはじめから偽薬効果を期待しては効果は現れないだろう。

「神に祈る」というのも同じようなものではないのか。自分の能力だけで何とかしようとか、あるいは自分の潜在能力よ飛び出せ〜などと意識しては潜在能力は発露しない。自分を捨て、自分に謙虚になって「神様仏様なんとかしてください〜」と純粋に祈る、ということが、プラシボ効果と同じく人間の潜在能力を自分で意識している以上に引き出すことにつながるのではないか。

というのは私の勝手な仮説ではあるが、このカラクリが頭にある間は、第1ステップはクリアできないのでは、という自己矛盾に陥っている今日この頃である。いったいどうすればいいのやら。

昨日、おとといの反動だろうか。昨日はようやく普通に眠れたと思ったら、なんと15時半まで寝てしまった。ずっと寝ていたわけではなく何度か目が覚めて、朝食を食べたりはしたのだが、ほとんど寝ていた。「調子が悪い」とかいう以前にただただ眠っていた。疲れがどっと来たようだ。精神的なものと関係しているのか、ただ単に体力が落ちているだけなのか。結局今日は何もしていないに等しい。