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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

昨日は友だちのお誘いで、「心理ワークショップ」というものに参加した。カウンセリングとは違って、「ワークショップ」である。正直、どういうものかよくわからないまま参加した。

 友だちというのは山岳会の仲間で、何回かこのブログにも書いた、何かスピリチュアルなものを感じさせる女性である。自分は彼女のことを勝手に「物事の真贋を見抜く目を持っている」と思っている。このブログでは何人もの友だちが出てきたが、彼女のことはこれからも出てくるだろうから、他の友だちと区別して友人Fと書くことにする。

 友人Fは私が去年の11月にODをした後、ブログを見て久しぶりにメールをくれて、12月にはうちにも遊びに来てくれた。多方面に情報通である彼女は、今の自分の悩みを解決するために有益な、いろいろな情報を提供してくれた。

自分自身、毎日大量の薬を飲んでいるのに、一向に体調が安定しないので、他に現状を打破する何かがないか、糸口を探していたところだった。うつ病学会が多剤投与を見直すガイドラインを作成したことを教えてくれて、減薬を勧めてくれたのも彼女だ。

えっと、それで何から書いたらよいものやら。まず最初に書いておくと、このワークショップは、自分が懐疑的だった「スピリチュアル系」のものである。いつもならそのようなお話はお断りするのだが、今回ははじめてこの方面に手を出してみた。その経緯はおいおい書くことにして、というか実際に書き出したら、話の本筋に至るまでにえらく長くなってしまったので、それは後日アップすることにして、とりあえず昨日やったことだけをかいつまんで書くことにする。


まず「先生」がいて、さらにその先生の教え子が2人いて、そのうち1人が友人F。最初に自分が何を悩んでいて何をどうしたいかを話し、その後に少しスピリチュアル的なことをやって、気を送られながらマッサージのようなものを受けて、体をほぐす簡単な体操とツボを教えてもらった。そしてアドバイスをいろいろもらった。「心理ワークショップ」と言われたが、自分の場合は心理的というより、身体的なアプローチのほうが効果的とのこと。


はあ、かいつまみ過ぎて、何がなんやら。でもあまり具体的に書いてもなあ、というか具体的に書いていいものやら、と思ったので、とりあえずこんな感じで書いてみた。実際にやった具体的なことは、自分自身が覚えている限り記録してある。

とりあえず感想としては、

「スピリチュアル的なことは実感としてよくわからなかったが、身体的なことに関しては、確かにつらさが緩和されたのて、成果としてはゼロではない」

という感じ。正直あまりよくわかってない。

まあ、何もしないよりかはまし、というのは感じた。かと言って過剰に期待するわけでもない。あくまでもニュートラルなスタンスで否定も肯定もせず、理解できないこともあるが、それはそれで理解できないまま受け入れて、とにかく続けてみよう。

最後に、今日のワークショップで自分が重要だと思ったキーワードを2つ。

「間が大事。間を開けること」
「自分が気持ちいいと感じるまで続ければ良い」

 やはり何がなんやら。今日はここまでにしておこう。

最近、ちょいと調子が悪い。いや、ずっと悪いは悪いのだが、午前中にしんどくて寝ている日が多くなっている。まあ、これは波があるし、雪が降ってどーんと寒くなったせいもあるかもしれない。

ただ、来週の診察で、減薬したために調子が悪くなったと思われるとまずい。これくらいの調子の波は、これまでもたびたびあったし、動けなくて妻に薬だけもらいに行ってもらったこともある。「ずっと調子はいいです」みたいな嘘はつかずに、ただし慎重に状況を話さなくては。

減薬は慎重にしないといけないので、来週の診察ですぐに「また薬を減らしましょう」というわけにはいかないだろう。とりあえずはこの状態で様子見になると思う。今のところ、寝る前のデパスを減らしてもちゃんと眠れている。これだけでもまずまずの成果だ。

それはそうと、アトピーが痒くなってきた。抗アレルギー剤が切れているから皮膚科に行きたかったのに、今週はしんどかったのでずっと行けなかった。今日行かなかったら、明日は用事があるし、土日を挟んで月曜日はメンタルクリニックに通院だし、火曜日は皮膚科が休みなので、もう次は水曜日まで行けなくなる。なんとか午後の診察に行きたい、でもしんどい、どうすればいいのやら。

とりあえず着替えた。そして、重い心と重い体を引きずって、外に出てみた。この見極めが難しいのだが、「何とか頑張って外に出てみる」と、「却ってしんどくなる」こともあれば、「だんだん調子がよくなってくる」こともある。今日は後者だった。歩いているうちに元気になってきた。しかしまだあちこちに雪が残っていて、外は寒かった・・・・・と思いきや、寒くなかった。

どうやら自分たちはすっかり寒さに慣れてしまったようだ。うちは今でも暖房を入れてない。我慢しているのではなく、寒くないから入れてないだけ。室内ではユニクロのヒートテックの上に長袖のTシャツを来て、その上からフリースを来て、さらにフリース地のガウンみたいなのを着ている。それで十分温かい。妻も何重にも着込んで大丈夫なようだ。

外に行くときも、フリースの代わりに襟付きのシャツを着て、その上からコートを羽織れば全く寒くなく、逆に歩くと暑いくらいだった。

ようやく皮膚科に行って、それから内科にも行って、ちょっとお買い物して帰ってきた。なんか久しぶりに外に出たような気がする。

明日は午前中から用事がある。10時に大崎へ行かないといけないのだが、果たして行けるのだろうか。今日こそは早く寝よう。

今朝は起きたのがなんと11時だった。昨日は午前2時頃までだらだらと起きていたのだが、それにしても寝過ぎである。寝る前の薬は減らしたが、睡眠時間は長くなっている。これはいいのか悪いのか。

そして頭が痛いし体もだるい。寝過ぎると頭が痛くなるのだ。首が異常に凝っている。この頭痛は首の凝りからきているようだ。

自己管理不足は否めない。せっかく減薬が始まったのに、自己管理がなってなくて体調が悪化しては元も子もない。医者にも「やはり薬は必要」と判断されてしまったら、何の意味もない。

それにしても、自己管理がなってないのは昔からだ。まったく頭が痛い。これからは気を引き締めて、早寝早起きに努めよう。

横浜は珍しく雪。どうやら関東一円は大雪のため、いろいろ大変なことになっているようだ。

 20130114snow.JPG

横浜に雪が積もったのは久しぶりのような気がする。何年ぶりだろう。
この雪景色を見ると、母が亡くなったときのことを思い出す。

一昨年の2月、入院中の母の容態が悪化したとの知らせを受けて、かなり調子が悪い中、重い体を引きずって大阪へ帰り、病院へ直行。

母は、前に会ってから1年も経ってないのに、まるで骨と皮だけのようにやせこけていた。最後には精神的にも少し異常をきたしていたが、私が来たのを喜んで、
「○○(私の名前)が来てくれた。○○が来てくれた」
と無邪気な子どものように叫んでいた。

しかし、30分くらい話したところで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。

母はいつも私の体調のことを気遣ってくれていた。心配ばかりかけていた。

私が横浜からはるばる駆けつけて、疲れているだろうから早く休みなさい、そういう親心が、少し歪んでしまった精神というフィルターを通して、こんな言葉になったのだろう。あの優しかった母が、智恵子抄の一節のように壊れていくのを見るのが切なかった。

翌日、兄夫婦の家に泊めてもらった私は、兄と一緒に再び病院へ行った。その日は今日の横浜と同じように、かなりの雪が降っていた。兄とふたり、駅までの急な坂道を、転ばないように気をつけながら登っていった。

その日も少し話しただけで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。

その後、少し容態が安定したと看護師から聞いて、その翌日に横浜に戻ることにした。帰るときにまた病院を訪れ、
「僕、いったん横浜に帰るからな。また来るから」
と言ったら、母はその日も、
「あんたは早く行き」
と言っていた。

私はおとなしく横浜へ帰った。

その翌日の夜10時頃だったろうか、母が亡くなったと兄から連絡を受けた。
兄は、
「ありがとうな。ほんま、ありがとうな」
と私に繰り返して言った。

自分は震える声で、
「お兄ちゃん、いろいろ大変やと思うけど、よろしく頼むな」
と言うのが精一杯で、その後はずっと泣いていた。

夜遅くに亡くなったから、お通夜は翌々日くらいになるだろう、と思って休むことにしたのだが、0時頃に再び兄から電話がかかってきて、
「明日のことやけど」
と連絡が入り、お通夜が午後6時から、納棺式は3時からと言われた。そんなにすぐにやるとは思っていなかったので、私と妻は急いで大阪へ帰る準備をした。しかし、私はかなりしんどいなか横浜と大阪を往復したばかりで、かなり疲労が蓄積していた。

横浜から午後3時に間に合うように大阪へ行くのなんて、普通ならどうってことないのだが、翌日になっても疲労困憊な私が動けるようになったのは、お昼近くになってからだった。なんとかタクシーをつかまえて新横浜駅まで行き、実家の近くの斎場へ急いだ。しかし到着したのは3時半。納棺式は終わっていた。末期の水を取ってあげることができなかった。

それから後は、とんぼ返りでくたくたになった体をひきずってお通夜を終え、翌日の葬儀も終えた。私は抜け殻のようになっていた。

その後は四十九日に帰って以来、一度も大阪に帰っていない。ずっと調子が悪く、一周忌にもお盆にもお彼岸にも帰れない日々が続いた。一度もお墓参りに行ってない、罰当たりな息子である。

来月には三回忌がある。母には悪いが、今回はあえて行かないつもりだ。理由は2つあるが、ここには書けない。やがて妻も私も調子が安定した頃に、帰って墓前に花でも手向けることにしよう。

まだ雪はこんこんと振っている。

今日、我が家に友だちが遊びに来てくれた。嬉しいことだ。

以前に所属していた山岳会の仲間で、とりわけ仲が良かった友だちの一人。そんな仲の良い友だちだったのだが、ずっと会ってなかった。自分は2001年に療養のために入院して、それ以降は山岳会のイベントに参加しなくなり、そのまま休会し、数年後に退会してしまった。山岳会の仲間たちとはすっかり疎遠になってしまっていた。

彼女とも数年前にメールでやり取りしたのだが、それを最後に連絡をとってなかった。最後に会ったのはいつのことだったろう。2001年の入院のときに面会に来てくれたのだが、そのとき以来か、その後2回くらい総会に出席したので、それ以来かもしれない。

しかし、かつて共に汗を流して2000メートルを超える山々を登った仲間である。その絆は強い。本当に久しぶりだったのに、まるで先月まで一緒に活動していたような、そんな気分だった。昔話をはじめとして話は尽きず、あっという間に日が暮れ、あれ、もう4時間も経ったの?という状態に。楽しい時間ってのはあっという間に過ぎてしまうんだよなあ。

本当に自分は友だちに恵まれている、とつくづく思う。特に一緒に山を登った友だちは、学生時代の友だちとはまた違う「絆」を感じる。「友だち」というより「仲間」という方がしっくりくるような気がする。

皮肉なことに、自分が自殺未遂なんてやらかしてしまったため、いろんな方面に心配をかけてしまったのだが、それをきっかけに疎遠になっていた人たちと、再びコミュニケーションを取る機会が増えた。こんなブログ、いったい誰が読んでくれているのか自分ではわからない。でも、たくさんの人が見守ってくれている、そう考えると勇気が湧いてくる。

ありがとう、友よ。ありがとう、仲間よ。皆がいるから前を向ける。皆がいるから歩いていける。たとえ亀の歩みでも。