去年、自分が自殺未遂をしてから、「生と死」について、多方面にわたっていろいろと深く考えるようになった。今まではそれらに関する自分の考えや疑問について書いてこなかったが、ぼちぼち書いていくことにする。と言うか、すでに書いている。いきなりブラックな記事を立て続けにアップしたので、こいつどうしたんだろうと思われているかもしれないが、まあそういうことである。今後もこんな記事が出てくるだろう。多分。
運良く死ななかったら
ある人が、殺意を持って人を刺した。
刺された人は、搬送先の病院で死亡した。
刺した人は殺人罪で起訴された。
ある人が、殺意を持って人を刺した。
刺された人は、運良く命を取り留めた。
刺した人は殺人罪でなく、運良く殺人未遂で起訴された。
全く同じ行為を行っても、被害者が死んだか死ななかったかで適用される罪名が異なり、結果的に判決も変わってくるだろう。
そういうものなのか?
合法的な殺人
人はいつか死ぬ。いつ死ぬか自分ではわからない。しかし、明確にわかるときもある。それは、その「いつか」が、お偉いさんのさじ加減一つで決定される時。
ブザーが鳴った後、3人の刑務官がボタンを押した瞬間、まるでバラエティー番組のセットのように処刑台の床板が外れ、一人の人間の命が一瞬にして奪われる。
それは、法の名のもとにおいて、人間が人間を殺害する瞬間。憲法で定められている法の下の平等はこの時点で崩壊しており、生存権は剥奪されているのだ。
彼、あるいは彼女は、確かに第三者の命を奪ったかもしれない。
それによって、被害者の家族を含めて多くの人を悲しませ、苦しめたことだろう。
しかし、彼、あるいは彼女にも親兄弟や友だちはいるだろう。その人たちには何の罪もない。それでも、刑が執行されると、被害者の遺族同様、肉親、あるいは友人を失う、という憂き目にあわなければならない。
正義とは何か。
「死を持って罪を償う」という言葉の意味が自分には理解できない。
死んでしまったら何も償えないではないか。
刑が執行されることによって、彼、あるいは彼女の罪は償えたと言えるのだろうか。それで被害者遺族は納得するのだろうか。「ざまあみろ」「せいせいした」と万歳三唱するかもしれない。しかし、それで罪は消えるものでもなく、許されるわけでもなく、償えるものではない。
江戸時代に認められていた「仇討ち」は、依然としてこの国の文化として残っているのか。身内を殺されたら、殺してもいいのだ。警察が、検察が、裁判官が、刑務官が代わりとなって。
報復合戦の拡大を防ぐための法令であるハムラビ法典が、
「目には目を、歯には歯を」
の一文で、全く逆の意味に誤解され、広まっている。その方がこの国の人間にとっては都合がいいのだろう。
人を殺したことはあるかい?
自分はない。
厳密に言うと、殺そうとしたが、失敗した。
あとちょっとのところだった。
こういう場合は、殺人未遂ということにはならないのか。
自殺は他殺か否か。
殺される理由
妻は虫が嫌いだ。
「あ、虫!」
という妻の言葉とともに、一瞬のうちに仕留められる。
この虫は、ただそこに存在するというだけで、なぜ殺されなければならなかったのだろう。

