TOPに戻る
鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

月別アーカイブ: 2012年11月

最近ネガティブなことばかり書いているが、上のタイトルの下に書いている通り、この日記は、

「心と体の模様を記録した雑記帳」

である。だから、鬱のときはとことん鬱の気分を書く。

適当に読み流してくれれば幸いである。

昔通院していた病院で、心理療法士によるカウンセリングを2年くらい受けていた。
そこで開いたパンドラの箱。心理療法士は最初に語った。

これからあなたのパンドラの箱を開けていきます。それは、あなたにとっては苦難かもしれません。しかし、それを乗り越えないと、自分は変わりません。人から指摘されたことは、自分で変えられないのです。あなた自身が自分で気づいたこと、それが重要なのです。そしてそれが自分を変えるきっかけになります。そして、そのパンドラの箱を閉じるのも私の役目です。

私が自分自身で目をつぶっていた、あるいは考えないようにしてきた、そして超自我に支配されて自分自身でも見えなくなっていた、自分の心の奥底の自分の本心。「○○しなければならない」でなく、「○○したい」という自分の欲求。
それらが少しずつ引き出されてきた。

カウンセリングのたびに、私は苦悩した。苦しい修行だった。自分を変えるためのカウンセリングは、決して「癒される」ものではない。自分を変えるには、自分の内面ととことん向き合うプロセスが必要で、心理療法士はその手助けをしているだけである。

しかし、その心理療法士は、自分自身の健康問題でドクターストップがかかり、病院を辞めてしまった。後任のカウンセラーは来なかった。カウンセリングは信頼関係が重要である。今さら他の病院の門戸を開いてカウンセラーを探す気はなかった。
いつの間にか、パンドラの箱は勝手に閉まってしまった。自分は再び自分の心に蓋をした。

ここ最近、貯金ももう底が見えてきているのに、未だに自分の体調が回復せず働けるめどがたたない自分、焦りばかりが先走る自分。明るい未来が見えず、過去のことを振り返って懐かしんでいるだけの自分。そして過去のトラウマに未だに囚われている自分。

そうしてパンドラの箱がまた開いてしまった。

「あの時には、あんなことを考えていたのか」
「あの時にあんなことをしたのは、こういう理由だったのか」
「あの時からずっと悩んでいるのは、こういう自分がいたからなのか」

次から次へと頭の中に浮かんできて、そして消えない。
自分は苦悩するばかり。
前を向くことを拒否し、後ろを向いてばかりで、だからと言って何も変わらない、何も解決しない、ただ苦しむだけの毎日。

パンドラの箱を閉めるのは、自分自身しかない。
鬱はそれを手助けしているのか、はたまた遮っているのか。自分の中に潜むチャーチルの黒い犬が笑っている。

わけもわからず自己嫌悪。
何がどうというわけでもなく、ひたすら自己嫌悪。

自分の中では、「憂鬱」と「鬱」は明らかに別物。

「鬱」ってどんな感じ?と聞かれても、なかなか言葉で表現できない。
あえて言うなら、「自己嫌悪の塊」というところか。

とにかく、自分を否定しないと気が済まない。
自分で自分を徹底的に責める。
自分の存在を許せなくなる。

それでも生きていかなくてはならない。
どんなに辛くても、人生を放棄してはいけない残酷な運命。

生きることは、権利なのか義務なのか。

わけもなく気分が落ち込んでいる。
いや、わけはいろいろあるのだが、今の気分の落ち込みは、
これと言った具体的な何かが理由というわけではない。
ただただ、気分が落ち込んでいる。

離人感がする。人に説明できない、なんとも嫌な感覚だ。解離の一種らしいが。

これが鬱というものなのだ。

わけもなく死にたくなる。

これが鬱というものなのだ。

昨日、友だちと何回もメールをやり取りして見えてきた自分。
それは、あまりにも過去の出来事に囚われている自分の醜い姿。
そして、妻の過去のことにも執着し、憤慨している自分の醜い姿。

やっぱり死にたい。

それは、鬱の症状でもなんでもなく、未来に背を向けて過去のことばかり懐かしみ、ただただ郷愁に浸る自分を否定した結果、生まれた感情。いや、生まれたというより、自覚していなかっただけかもしれない感情。
前にも後ろにも行けない以上、この場から消え去りたいというネガティブな願望。
自分の存在を抹消することで、社会的に自分の存在をアピールする虚しい自己満足。

自分は、今の自分は、やはり現実を受け入れることができない。

だけど、

死んだら迷惑をかけてしまう人がたくさんいる。
死んだら悲しんでくれる人もいるかもしれない。

だから、自分は「希死念慮」とともに生きていく。
「絶対自殺をすることはない」とはもう思っていない。

「やっぱり死にたいけど、絶対に死んではならない」

肝に銘じて生きていくことにする。

絶望的な未来に乾杯。