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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2001年9月7日

昨日もよく眠れた。追加眠剤をもらわずに、1、2回は目を覚ましたが、時間を確認した瞬間にすぐ寝入ってしまって、4:00くらいまで眠れた。熟睡感を感じる。

ホールへ出てくる。いつもならMちゃんもこの時間にはこの場所にいるのだが、今日からはいない。昨日はこれを書いているうちに去っていってしまったのか、まだ面談が続いていたのか、最後を見送ることもできなかった。「昨日まではMちゃんもいたのにね」私がそう言うと、Tさんが「Mちゃん、結局ここに戻ってくるそうよ」へっ???「医者と家族と本人と話し合った結果、結局そうなったんだって」なんだなんだ。Mちゃんが「どうしてもこの病院にいたい」と粘ったため、実はそういうことになったらしい。話が二転三転するが、彼女がまた戻ってくるというのは嬉しいという反面、「また問題を起こさないといいが」という懸念、そして自分が「巻き込まれる」ことを避けないといけない、という複雑な思いが頭をかけめぐる。一度自分の中で「訣別」したものが、あっと言う間に目の前に現れる。それはなんだか拍子抜けというか、肩すかしをくらったというか、とにかく今の私の心境は「嬉しい」と「心配」が入り交じっている。

充分睡眠はとったつもりなのに、なんだか気分はすぐれない。朝一番に、上に書いたような複雑な心理が頭を駆けめぐったせいであろうか。朝の散歩も行かず、無理をせずにベッドに横になる。作業療法の時間まで休もう。

メールチェックすると、昨日の晩に「また会う日まで」という件名でMちゃんに出したメールの返事が来ている。早朝に書いたようだ。「歌ってくれてありがとう。これからもオカリナ散歩しようね。」そう書いてある。「また会う日」がこんなに早く来るとは思わなかった。

作業棟で体力トレーニング。最初に心拍数を測定するが、またまたはじめから高い。しばらく休んでからもう一度計るが、やはり高い。どうやら調子が悪いときは、正常時心拍数がかなり高くなるようだ。無理は禁物なので、負荷を低めに設定し、年齢はさばを読まずに入力し、ただし時間は20分といつも通り。有酸素運動は少なくともこれくらい継続してやらないと意味がないからだ。漕いでる途中、Mちゃんが家族と一緒に作業棟にやってきた。「お帰り~」そう言うと、彼女は笑ってまた別の場所に行ってしまった。

病棟に戻ってからしばらく休んで喫煙所に行くと、「今晩Mちゃんの再入院祝いやるから」とTさんが100円ずつ集めてる。S君が午後外出したときにケーキを買ってくるらしい。100円くらい快く出すが、「再入院祝い」という言葉は、とても不思議に感じる。いや、もちろん転院が取りやめになってこの病院に残れた、という意味なので、本人を含め、みんなも喜んでいるのだが、本人にとってそれが本当にベストだったのかは誰もわからない。

昼食後、喫煙所でMちゃんがつぶやく。「また、入院の挨拶するのかな」そう、ここでは連絡会の時に、入院してきた人、退院する人は一言挨拶する。昨日、彼女は泣きながら「皆さん、お世話になりました」そう挨拶したばかりだ。「一週間あいて、とかならまだしもさぁ、昨日の今日だから、どうするのかなぁ。これじゃ出戻りじゃん」Mちゃんは照れくさそうに言う。

私がベッドに寝転がって、昨日買ってきたコンピュータ雑誌を読んでいると、看護婦から「面会の方がいらっしゃいましたよ」と告げる。誰だ?今日誰か来るなんて聞いてないぞ?しかも平日だし。ホールに出ていってみると、両親だった。なんでいきなり来るんだ。外出とか外泊してるかもしれないのに、来るなら来るで連絡くらいしろっつーの。どうやら、父親が仕事の都合で近くに来るから、ついでに病院に寄ってみようと思い、それならとついでに母親もついてきたらしい。病院には昨日までに連絡を取って、13:00に私の主治医とアポを取って、面談をしていたそうだ。全く知らなかった。せっかく来たから、ということで私に会いに来た、ということだ。両親を前にして私の一言目は「来るなら連絡くらいしてよ」だった。

両親、特に父親とは話していて全くおもしろくない。相変わらず「うつ病」について正しく理解しているとは思えない話の内容、そして相手を全く無視したしゃべり方。話題が私の兄の現在の仕事の話になって、それがいかにも自分が手を貸してやったからうまくいってる、というような自慢げな口調で話し続ける。私が話に飽きてきて、全く横を向いてしまい、食べていたプリンの容器のシールをはがしたりして、いかにも興味がないような素振りをしても、全くそれを無視して、とにかく自分の言いたいことだけしゃべり続ける。私が母親と少し会話をしていると、その流れを全く無視し、いきなり会話に割り込んできて別の話をしゃべり続ける。この際だから私ははっきり言ってやった。

「なんで人が興味を持って聞いているかどうかを全く無視して一方的にしゃべるんだ?」

本人は「そんなつもりはない」としか言わない。そう、彼は自分の非を絶対に認めない。
そして、こうも言ってやった。

「自分の子供が4人いて、2人精神科にかかっていて、1人は全く社会に適応できなくて、残りの1人はまるで非常識な性格になった現実を見て、何が原因かわからないのか?」

両親は、「まあ、そりゃ、家庭環境が何か悪かったんだろうけど…」と、一応自覚しているようだ。だが、何がどう悪かったということはさっぱり自覚してないし、それについて調べたり考えたりしようともしていないようだ。兄弟4人が4人とも父親を嫌悪していて、話をするのを嫌がっている、という現実も最近になってようやく気づいたようだ。私はさらに続ける。

「僕はお父さんとお母さんが、仲のいい夫婦に見えたことはなかった。いつもお父さんは自分の非を認めずに、僕らから見たら明らかにお父さんが悪いと思うことも、ぜんぶお母さんに『お前が悪い』と言っていた。そしてお母さんも、いつも『はい、私が悪いんです』で済ましていた。僕の目からは、いつもお父さんがお母さんを虐待しているように見えた」

これには父親は驚いたようだ。子供の目に自分たち両親がどう映っているか、考えたこともなかったようだ。父親は言葉に詰まった。私は続ける。

「だから今どうしてくれ、というものじゃない。昔のことはどうにもできないから。でも、僕は今こうやってお父さんと話しているだけで、ものすごいストレスを感じている」

母親が私に言う。「今、お父さんやお母さんにできることは、何かない?」私はきっぱり言う。「二度とここには来ないでください」

2時間くらいしゃべっただろうか。本当にストレスでぶっとびそうになった。一応、病院の玄関まで両親を見送っていったが、二人から解放されて、やっと一息つけた。信頼できる両親の元で育った人が、心底うらやましいと思う。今から両親に対するトラウマ的感情を何とかしろ、と言われても、今の自分にはどうにもできない。父親の顔を見るだけで生理的な嫌悪感を感じるのだから。

私と同じうつ病で、一つ年上のKさんが、社会復帰に向けて体力をつけるために、これから毎日「1日12キロ歩け」と医者から言われたそうだ。彼はかなり体力が落ちていて、エアロバイクの体力テストでも「10段階中の2。かなり劣る」と出たそうだ。やはり体力は基本なのだろう。私もそのうち同じようなことを言われるのだろうか。私は幸いなことに体力はそんなに落ちてなく、人並みにはある。時速4キロで歩いたとしても、12キロだと3時間。山を登るのに較べれば平地を歩くのなんか楽勝だ、と言いたいところだが、平地の方が精神的につらいかもしれない。山を登っていると、体力的にはきついが、心は癒される。この辺で平地を歩くとなると、どこを歩くのだろう。ここから町の中へ出ていって、適当なところで引き返してくるか、どこか巡回してくるのか。どちらにしろ、「ただ平地を歩く」のを3時間続けるというのは精神的には苦痛かもしれない。だからこそ、社会復帰の訓練になるのかもしれないが。

新しい患者が閉鎖病棟から移ってきた。一見、どこも悪くなさそうに見える。話を聞くと、「風邪薬の飲み過ぎで幻覚が見えるようになった」ため、緊急入院し、閉鎖病棟に3週間いて、状態がよくなったのでこちらに移ってきたらしい。別に死のうとか思って風邪薬を飲んだ訳でなく、本当に風邪をひいて薬を飲んだが、なかなか良くならず、4日間寝込む間に飯も食わずに体が衰弱していくところに、治そうと思って風邪薬だけばんばん飲んだそうだ。こういうパターンもあるんだ。風邪薬だと言ってばかにはできない。そう言えば、風邪薬をビタミン剤だかなんだかと偽ってずっと飲ませ、ついに死に至らしめた事件もあった。閉鎖病棟に3週間で済んだのだから、ここも短期間で出られるだろう。こういう急性の患者にははじめて出くわした。

連絡会で入退院する患者の挨拶。だが、紹介されたのは閉鎖病棟から移ってきた彼だけだった。Mちゃんの転院とりやめは、もうみんなわかってることなので省略されたのだろうか。「せっかく言うこと考えていたのに、挨拶したかったな」Mちゃんはつぶやくが、顔は嬉しそうだ。

19:00から喫煙所でMちゃんの「再入院祝い」。S君が、外出届けを出してないのに散歩時間をごまかして散歩簿に記入し、駅前まで行って買ってきたケーキを出す。Mちゃん感激!と思いきや、うん、感激していた。が、みんなでびっくりさせようと思ってたのに、Tさんが「ケーキ用意してあるから」とつい口を滑らせてしまっていたため、実は知っていたらしい。でも、チョコレートに書かれた「Mちゃんへ」という一言に「じ~んときた」と言っている。昨日のこの時間はまるでお通夜のようだったのに、今はほんわか気分で、みんなでケーキを切りわけて食べる。糖尿病でケーキを食べられないおばあさんも、みんなを羨ましそうに見つつ、その場で一緒に祝っていた。向こうの方では、例の気の早いおじさんが、今日は40分も前から薬を待って並んでいる。

その祝いの席には、いつもペンギンみたいなよちよち歩きで一言もしゃべらず、普段は煙草を吸っては帰って行くだけの、Kちゃんと呼ばれているお爺さんもいた。ヘッドギア3人衆、いや今では2人衆の1人で、入院歴は30年と言われている。いつもお菓子があると食べたがるので、歯がなくても食べられるものならあげていた。いつもKちゃんは何の表情も示さなくて、感情を失っているかのようだ。今日は歯のない口でケーキをもぐもぐやっている。てっきりケーキがあるのが目に入ってやって来たのだと思っていた。

だが、あとからS君から「Kちゃんが、小銭を持ってきて俺に手渡そうとするんだ」と聞いてみんなびっくりした。感情を失っていて、何もわかっていないようなお爺さんだと思っていたのに。「みんなでお金を出し合って買ったから、自分もお金を出さないと」そういうことがちゃんとわかっているのだ。この光景を見てTさんは泣き出してしまったそうだ。必死に「いいよいいよ」とお金を返そうとするS君に、どうしてもKちゃんは小銭を渡そうとするので、Tさんが「じゃあ、Kちゃんの気持ち、もらっておくよ」そう言って小銭を受け取り、看護婦に「Kちゃんのお金ですから」と言って預けたらしい。今回の祝いの席で、みんなが一番感動したのはKちゃんのその心遣いだった。

20:00になった。7粒の眠剤を見るたびに、「自分は大丈夫なのだろうか」不安がよぎるが、それを無理矢理払拭し、明日のために今日は寝る。