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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2018年7月12日

やれやれ。

この日記は最近では睡眠の状況から書き出すのだが、もう毎日同じようなことを書いてて嫌になる。が、一応書いておこう。

昨日は23時半に就寝。寝付きはまあまあ良かったと思う。夜中はぐっすり眠れ、8時過ぎに一瞬目が覚めて、よし今日はいつもより早く起きよう、などと殊勝なことを考えること0.01秒、また気を失う。そして次は9時過ぎ。ああ今度こそ、と思いつつまた気を失う。妻が寝室に入ってきて「10時です」と言うがすぐには動けず、結局起きたのは10時15分。なぜこうなるのか、とほほ。

今日は15時くらいまでネットして、その後はテレビを見ていた。一日一回は外に出ないといけないなあ、と思っていたら携帯に「大雨洪水警報発表」とのメールが。横浜防災情報のメールである。警報か、今日は外出はやめておこう、とあきらめたはいいが、どこか心の中でほっとしている自分がいる。

こういうことを書いていると、2001年から2004年くらいまで受けていたカウンセリングを思い出す。思い出すというか、過去の日記を読み返して再認識したのだが、昔の自分は「~ねばならない」という思いに頭が支配されて、自分が本当は「何をしたい(したくない)」かがわからなくなっていた。

今日で言うと、「外に出なければならない」と思っているが、自分の本音は「本当は行きたくない」である。これを認めない、つまり無意識の領域にこの思いがある限り、自分の本当の思いと、見せかけの思い「行かねばならない」との葛藤は続く。この2つの思いがぶつかり、鬱という形で牙をむく。そして「行かないといけないのに、行けなかった自分」に対する自己嫌悪だけが残る。これでは自分をコントロールできないままである。カウンセラーに何度も指摘されたことだ。

「本当は行きたくない」という隠された自分の本音を認めることによって、無意識の自分の考えを意識上に持ってくることができる。無意識下にあるものはコントロールできないが、意識上に持ってきたものはコントロール可能となる。

つまり、「本当は行きたくないんだけど」と思っても、それをしっかり自分で意識していれば「行きたくないけど、まあまあそうは言っても行ったほうがいいと医者も言ってるし」と自分の心の中で折り合いをつけて行動することができる、ということである。

昔はこれが全くできなくて、精神科デイケアに通っているときには、休んでばかりで、「なんで今日も行けないんだろう」と毎日のように思っていた。その頃は「行きたくない自分」を認めることができていなかった。

今は昔よりも進歩していると思う。行きたくないものは行きたくない。そう開き直れている。開き直れているからこそ、かえって外に出られているような気がする。もちろん本当に調子が悪いときは無理であるが、そんなときでも自分を責めることはなくなったと思う。

これからも自分の心の声に謙虚に耳を傾けよう。それにしても、日記は書いておくものだ。やはり後で役に立つ。