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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

月別アーカイブ: 2013年6月

先週「記憶を消去したい」という記事を書いた。

ときどき、「過去の嫌な出来事」が頭の中に浮かんではぐるぐると回って他のことが考えられなくなる。その「嫌な出来事」というのは、ある限定的なことがらである。それが自分の中でぐるぐると回っている間、自分はある種の狂気の中にいる。とてつもなく極端なことを考え、とてつもなくネガティブになり、突拍子もないことをやろうかと真剣に悩んだりする。正気に戻った自分の頭で改めて考えると、とても恐ろしい。

自分は今日、その根っこを掴んだような気がする。昨日もその狂気に襲われたのだが、なぜそうなったのか、何が原因なのか、そのトリガーは何なのか。自分の心の中を、自分の思考パターンを、自分の感情の変化を、そして自分の性格を、徹底的に客観視し、結果から原因を探り当て、「多分これだ」と掴んだ感触がある。少なくとも昨日の狂気のトリガーは「あれ」だ、そう考えると自分の中で辻褄が合う。他の人には全く理解できない思考回路かもしれないが。

しかし、その根っこはかなり深い。「過去にあったこと」と「過去になかったこと」これら2つの要因が、トラウマとコンプレックスで歪んだ自分の思考回路を通して結びついてしまうと、狂気に陥る。それに抗うすべは今のところ持ち合わせていない。その根っこを掘り起こすことは、過去を書き換えるということである。それは去年の自殺未遂の発端とも関連してくるのだ。それだけ根が深い。

過去を書き換えるとことも記憶を消去することもできない。自分にできるのは、狂気に陥った自分をどうにかしてコントロールすることしかないだろう。

あとは時間が解決してくれるのを待つしかない。狂気と背中合わせに生きていくしかない。

妻がどんどん弱っていく。

 

妻はメンタルな病気は抱えているものの、元々体は健康で、大病を患ったこともなければ、風邪をひくことも稀だった。しかし、去年の暮れにノロウイルスにやられてから、ずっとお腹の調子が悪い状態が続いていた。

内科に行って薬をもらってきても、良くならない。また行って薬が増えたけど、まだ良くならない。また行って薬が増えたけど、それでも良くならない。

そして内視鏡による大腸検査をやった。検査の3日前から食事制限があり、前夜と当日の朝に2リットルもの下剤を飲んで、トイレにこもりっぱなし。可哀想でしかたがなかった。

検査の結果、大腸にはなんの問題もなし。結局のところIBS(過敏性腸症候群)という診断なのだが、そもそもIBSは原因が不明で、ストレスが関係していると考えられている。ただ、大腸検査をやったらいい菌も悪い菌も全部出してしまうので、検査をやっただけで良くなる場合もあるらしい。

しかし、苦しい大腸検査が終わり、結果を聞いて安心し、ストレスフリーになって家に帰ったその夜、また妻は下痢だった。もうどうすればいいのやら。妻はすっかり外に出るのが恐怖になってしまった。

下痢型IBSの薬は少なく、女性には一種類しかない。「女性に」というのは、「男性だけ」に適応が認められている薬があるからである。これは不思議なことに、治験の結果、男性には効果が認められたが、女性には効果は認められなかったので、そのような適応となったらしい。

ちなみに一般的に「下痢止め」として処方される薬は、単なる対処療法で、医師の言葉を借りれば「問題を先送りにするだけ」らしい。常用すると危険なので、たまにしか使えない。

それに加えて、妻は咳がずっと止まらなくなっている。これは1ヶ月前くらいからだが、それも内科で診てもらい、念のため肺のレントゲンを撮ったところ、タバコを吸わないにしては肺が白っぽいという。これも原因不明で、咳止めや吸入ステロイド剤を処方された。薬を服用している間は咳は軽くなるが、薬が切れるとまたひどくなる。

医師の見立てでは「咳喘息」ではないかという。咳喘息とは、ヒューヒューゼイゼイと呼吸に雑音が交じる普通の喘息とは違い、ただ空咳が慢性的に出る病気らしい。アレルギーで起こりやすいというが、妻はアレルギーの検査はやったことがない。

実は喘息の薬を飲んでいると下痢は治まっている。しかし喘息の薬には副作用として「便秘」というのがあり、下痢が治まっているのはそのためかもしれない、と医師は言う。

結局のところ、何をどうしたらいいのやら。とにかく病院に通って薬を飲むしかないのか。

それから妻は子宮筋腫も抱えている。6cm×7cmとかなり大きいが、悪性ではないので経過観察中。半年に一回くらいは検査しないといけないのだが、今月はその検査もあった。

 

なんだかんだ医療費がかさみ、今月は大腸検査や子宮筋腫の検査があったので、35,000円を超えた。今年の累積も15万円を超えている。なんだか不公平感を覚える今日この頃。思ったよりも終末は近いかもしれない。

最近、過去の「嫌な出来事」が勝手に頭に浮かんできては、それを頭の中に反芻して苦しんでいる。そしてその「過去にあったこと」(あるいは「本来あるべきなのになかったこと」)に関係する人たちに不平不満をぶちまけ、延々と文句を言っている。すべては脳内の仮想空間で。そしてまた惨めな気持ちになる。それらがずっと頭の中をぐるぐると回っている。いっそそれらの記憶全てを消し去りたい。

余計なことを考える時間があり過ぎるのだろう。前を向いても地獄、後ろを向いても地獄。

損な性格だ。

頭が割れるように痛い。

首と肩が異常なまでに凝っている。調子が悪い証拠である。

左目と右目の像が一致しない。

今さらながら、村上春樹の「1Q84」を読んだ。

2つの月が空に浮かぶ世界に迷い込んだ話。

昨日、夜空を見上げてみた。

自分にとって、昔から月は2つだ。はっきりと間隔があいて、2つに見える。

それが普通の世界だと思っていた。普段はその2つの像を1つに見せるために、目の周りの筋肉が頑張っている。その筋肉が弱っていると、左右の像を一致させることができない。

今でもPCの画面に向かって、同じウィンドウがずれて並んでいる不思議な世界を見ている。自分の両眼視差はかなり大きいが、見た目は正常に見える。特殊な斜視らしい。普通の人にはもちろん月は1つに見えるらしいが、特殊でない斜視の人には、月はいくつ見えているのだろうか。

そう言えば斜視の友だちが一人いた。そういうことを聞いても差し支えない間柄なので、今度何かのついでに聞いてみよう。

なんだか最近、生きるのがつらい。

いや、最近ではなく、もっともっと前からだったが、特に最近、一向に調子が悪い中、何も前に進まないことに対する焦燥感、無力感が強くなってきた。

自分は生きている意味があるのだろうか。

会社勤めをしていたときは、プロジェクトでは属人的な要素も多く、「休むとみんなに迷惑がかかる」といつも思っていた。だからこそ、病気になって休んでばかりいると、いつも申し訳なくてしかたがなかった。しかし、実際は自分ひとりが欠けた所で、それなりに組織というものは回っていくものだ。自分が存在しなくても、誰も困りはしない。

最近私が気に入っている「Goose House」という、シンガーソングライターのユニットの楽曲に、こんな歌詞が出てくる。

たとえば君が死んでも
世界は変わらない
悲しいほど

自分ひとりが消えた所で、そりゃ何人かの人に迷惑をかけたり悲しませたりするかもしれない。しかし、それで世界の何が変わるというのか。70億分の1の、たったちっぽけな自分が消えた所で。

今のところ「死にたい」とは思ってないが、積極的に「生きたい」とも思わない。あえて今の心境を述べるなら、

「いつまでこんなしんどい思いをして生きていかなければならないのだろうか」

に尽きる。どんな形であれ、「早く楽になりたい」ことに間違いない。

「神は越えられない試練は与えない」などと言う人もいるが、自分はキリスト教徒でもないし、そもそも宗教は嫌いだ。宗教曲は好きだが、宗教は嫌いだ。くどいほど書くが、宗教は嫌いだ。これは自分に宗教を勧める人があまりにもうざいので、あえてもう一度書くが、宗教は嫌いだ。いい加減にしろ。

神でなくてもいいから、自分より高次元の何かに身を委ねる、というステップが、鬱からの脱却のための一つのメソッドとして、いろんなところに出てくる。自分もそういう境地になれるか、考えたことがあるし、うつ仲間と議論したこともある。しかし自分の場合、まあ無理だ。

何度も書くが、宗教は嫌いだ。それは「神様」という概念に対するアンチが幼児体験として自分の中に存在し、成長の過程でその「アンチ宗教」を伴って自分の自我が形成されたからだろう。自分が幼い頃にさんざん聞かされた「神様」は、自分の大学の先輩だとか。全くアホらしい。自分にとって、すべての宗教はカルトである。大いなる偏見があることは百も承知の上で書いている。

それとも、いっそ怪しげな何かに洗脳されたほうが、却って楽になるのかもしれない。たとえそれが反社会的なものであったとしても。