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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2003年3月5日

朝早く起きたが朝食を食べてまた寝てしまった。いつもと同じである。

そして昼頃目が覚めた。今なら午後のプログラムには間に合わなくとも15時からの英検クラブには顔を出せる。そんなに調子は悪くなさそうだ。動けそうだ。そんな感じなのに、なぜか動かない。ぜんぜん動く気が起きない。なぜなんだろうか。行こうと思えば行けそうなのに、どうして行けないのか。こういう中途半端なときは自分でもどかしい。誰か首に縄をつけて引っ張ってくれれば行けそうなのだが、人に引っ張ってもらうのではだめだ。自分でなんとかしないと。

しかし健闘(していないが)むなしく、また寝てしまい、起きたら15時半。なぜなんだ。今日もいっぱい夢を見た。小学生の頃の友達やら職場の前の部署での先輩やら、いつものことではあるが懐かしい人が出てくる。スーツを着ようとしてどうしてもうまく着られない、というところで目が覚めた。何かを暗示しているのだろうか。「起きて行かないといけないのに動けない」という、そのまんまの夢を見ることも前は多かったが、もっと漠然とした「何かをしようとしているのに、うまくできない」夢もみるというのは、何か心理的に意味があるのだろうか。何かの強迫観念にとらわれているのだろうか。

夜、彼女と話をしていて、どういう脈絡だったか忘れたが「もし余命1年と言われたらどうする?」と聞かれた。「海外ボランティアでも行こうかな」と言うと、とても不思議そうな顔をしていた。自分だったら好きなところに行って好きなものを食べて過ごす、という。普通はそうなのだろうか。そんなことをしたらますます死ぬのが惜しくなるだけではないか。あと1年しか生きられないとわかった時点で、いつ死んでも惜しくないようなことをしよう、とは思わないのかなあ。治安が悪かったりたいへん貧しかったり、「自分も死んだらどうしよう」と思うような場所へ行って、たとえば地雷撤去なんかを手伝う、というようなことを私の場合まっさきに思いついた。どうせもうすぐ死ぬんだから多少無茶をしてもかまわない。どうせ死ぬんだったら、代わりに誰かに生き延びてほしいものだ。