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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

断眠はやめとこう。

と、昨日の夜に書いた。

が、ふとVPNで会社のネットワークに接続して、プログラミングで気になっているところをちょこっとだけいじろうとしたら、

したら、

したら、

したらば、

朝になっていた。

ふぇ~、完徹してしまったぞなもし。何年ぶりか。ふらふらの頭で、もう駄目だ、横になって寝よう、そういう状態で。

あえて無理をして、いや無茶をして会社に行ってみた。限界まで挑戦、というかなんというか、とことん無茶してやろうじゃないか、一度どこまで無理できるかためしてガッテン。なんかもう破れかぶれだった。

会社にたどり着いて、それなりにちょっとは仕事して、そして予定よりも大幅に遅く、それでも定時よりは早く切り上げて帰ってきた。

家に帰ったら速攻で飯食って寝る!

つもりだったがまだ起きている。昨日の13時くらいから起きているから32時間くらい起きていることになる。なぜだかふらふらなまま起きている。なんでだろう?

とりあえず風呂が溜まったら入って、今度こそ寝る。明日は明日の風が吹く。

断眠療法は失敗した。先月のようにうまくはいかなかった。

予定通り朝の4時に寝て、8時に・・・・・は起きれなかったが、それは先月も同じ。それでも先月は10時くらいに起きて体が動いたのだ。しかし、今日は動けなかった。13時くらいまで寝て、起きても動けなかった。いつも成功するとは限らない。必勝法などないのだ。

さて、天気予報によると明日の日中までは春のように暖かく、それ以降は1月の寒さに逆戻りするらしい。再チャレンジするのなら今夜しかない。が、体に大きな負担をかけるこの断眠療法、続けてやるのはリスクが高いだろう。今日はおとなしく寝ることにする。

どうすれば抜け出せるのかなあ。困った。

今日も会社、行けなかった。

でも今日は割と暖かい。東京では梅が咲いたらしい。

よし、チャンスだ。

これよりプチ断眠決行。

4時まで起きて、8時まで寝てからそのまま会社へ行く算段。今からもう外に出られる格好をしている。去年の12月は、8時とはいかなかったが10時くらいに起きてトンネルを脱することができた。今回もうまくいきますように。

正直、体にはこたえるし無茶をやっているとは思っているが、そうでもしないと膠着状態をぶち破れない。なんとしてでもこの状態から抜け出すのだ。

今日も会社を休んでしまった。昨日のように一日中寝ていた、とまではいかないが、昼までは寝ていた。その後はただぼんやりとテレビを眺めていた。ただひたすら小沢氏のことと、あとは小林繁投手の訃報についてワイドショーでとりあげていた。小林繁なんてもう何十年も忘れていた人物だったが、なぜか軽いショックを受けた。最近「人の死」というものに敏感になっているのかもしれない。

私が小学生の頃は、遊びというとまず「野球」であった。軟式ボールを使って近所のグランドで死ぬほど野球ばかりしていた。私自身は特にプロ野球が好きだというわけではなかったのだが、そういう場合、大阪ではデフォルトで阪神ファンということになる。小林投手のサイドスローは、毎日サンテレビ(神戸のUHF局)かKBS(京都テレビ)で必ず試合最後まで放送する阪神タイガースの試合でいつも観ていた。阪神ファンの子どもたちはみんなあのサイドスローを真似したものだ。明石家さんまがブレイクしたのも、小林投手のモノマネがきっかけだったと記憶している。

最近昔を懐かしむことがなんだか多い。歳をとったな、と感じる。

今日はテキサスバーガーどころか、しんどくて朝から晩まで寝ていた。

一日中寝ていたというと、そう今から15年前の1月17日もそうだった。大学を卒業して長年住み慣れた関西から上京した社会人一年目の1月17日、私はインフルエンザにかかり、40℃の熱が出て一日中会社の寮の部屋で寝ていた。その日はしんどくて病院にも行けなかった。

夜になってからなんとか起きてテレビをつけてみた。ニュースでは何か大きなものが燃えている映像が映し出されていた。熱で朦朧とした頭で「どこかの工場で火災でもあったのかな」と思ってい見ているうちに、とてつもなく大変な事態が起こっていることがようやく理解できた。

1995年1月17日。阪神淡路大震災。

大阪出身で京都の大学に通っていた私は、京阪神地区に友達がたくさんいる。ネットにアクセスすると、既に安否情報が飛び交っていた。私は友人に電話した。繋がらない。こういう災害の時は安否確認の電話は、心配かもしれないがしてはいけない、と知っていたのにそのときはそんなことは全く頭の中になかった。人間テンパったらそんなものかもしれない。

次の日、まだ熱の下がらない私はテレビをつけっぱなしにしてベッドで寝ていた。テレビでは地震のニュースを延々やっていて、身元が確認された犠牲者の名前が読み上げられていた。画面は見てないが、テレビの音は聞いていた。そしてある犠牲者の名前が読み上げられたときのことだった。

「神戸市○○区、△△××さん」

私は驚愕のあまり、動けなくてぐったりしていたのが嘘のように反射的に起き上がってテレビの画面を見た。

同姓同名だった。

私の友人と、住んでいる区も名前も同じ犠牲者の方がいたのだ。テレビで見て、字も年齢も違ったのでほっとしたが、あの時の驚愕の瞬間はは未だにスローモーションのように鮮明に覚えている。

私の知人で亡くなった人はいなかったが、家が全壊してしまった人やその他被害を何らかの形で被った人は何人もいる。私の実家は幸いにも大阪でも京都寄りで、震度5くらいだったらしく、大きな鏡が落ちて割れたくらいですんだらしい。

私は今、いつ地震が来てもおかしくないとずっと前から言われつつまだ来ていない場所で暮らしている。私のコンテンジェンシープランは大丈夫か。ハイチの大地震の状況をテレビで観ていて、自然災害の恐ろしさを改めて知るとともに、今一度万が一の事態に備えて今の自分は何をすればいいのか、見直すべき機会であろう。