3日前くらいから調子が悪い。
一気に寒くなった。
先日、急に寒くなったときに「寒の戻りか」と書いたが、それはフェイントで、今度が寒の戻りのようだ。
寒暖の差がダイレクトに自分を襲う。喘息も少し出てきた。
気がつけば今週は月曜日しか外に出てない。
ま、いいか。


3日前くらいから調子が悪い。
一気に寒くなった。
先日、急に寒くなったときに「寒の戻りか」と書いたが、それはフェイントで、今度が寒の戻りのようだ。
寒暖の差がダイレクトに自分を襲う。喘息も少し出てきた。
気がつけば今週は月曜日しか外に出てない。
ま、いいか。
昨日、友だちからメールが来ていた。何やら悩み事があるようだったので、自分でよければ相談にのるからメールでも電話でもください、と返事をしたら、電話がかかってきた。内容としては、自分の将来を左右する急ぎの判断を迫られる話が突然降ってきたのだが、人にはあまり相談しにくくて、意見を聞きたい、ということだった。話を聞いて自分なりの意見を言ってみたりして、1時間くらい話をした。
今日になって、昨日はありがとう、あの件はこうすることにしました、とメールが来た。うんうん、今の段階ではそれは懸命な判断ではないかな、と思って読んでいた。
そのメールの返事に、ふと「前からぼんやりと思っていた」ということを初めて明文化して書いてみた。この日記にもまだ書いてない(と思う)ことなので、頭を整理するつもりで、改めてここに記すことにしておく。
自分は、昔から何らかの世話役やら運営やら、あるいは雑用的なことにすぐに首を突っ込んでしまう。今も学生時代の合唱サークルの同期の取りまとめ役として、現役のOB係と連絡をとったり、名簿の管理をしたり、メーリングリストの管理をしたりしている。高校時代の部活の仲間でも、特殊な機能のついた掲示板を自宅のサーバで運営したり、ファイルアップロードのためのグループウェアなんかも作っている。上京してすぐに入った合唱団や、かつて所属していた山岳会でも、入ってからすぐ運営に首を突っ込んだりしていた。そこでも名簿の管理をやっていた。
なんでそんなことにすぐ首を突っ込むのか、雑務をわざわざ引き受けるのか、実は自分でもよくわからなかった。そういうことが好きだから、としか言えなかったが、最近自分の内面についていろいろ考えていて、自分でも「これかな?」という答えが見つかった。
表向きの理由としては「みんなの役に立ちたい」のだが、なぜそう思うのか。それは、「自分を必要としてもらいたい」ということで、必要としてもらうことによって、自分の存在を肯定することができる、という構造が自分の中にあるからだと思う。結局のところ、エゴである。
だから、私はどこへ行っても自分の居場所、というか「自分の存在理由」を無理やり作り出しているのだと思う。そしてそれが、仕事においては裏目裏目に出て、鬱という病に陥る原因ともなってしまったような気がする。勝手に自分で抱え込んでしまうのだ。
今回、友だちが自分にヘルプを求めてきたことが、純粋に嬉しかった。友だちは自分に「ありがとう」と言ってくれたが、自分こそ「必要としてくれてありがとう」と言いたい。持つべきものは友かな、とつくづく思う。
(去年からこのパターンで終わることが多い)
昨日はメンタルクリニックへの通院だった。ここ2週間は割と安定してきた、という話をしたあと、主治医に「治療に漢方を使う」ということについて意見をお伺いしたみた。
これまでこの日記で漢方については一切書いてこなかったが、話は去年の12月に遡る。
この日記でたびたび登場する友人Fが、うちに遊びに来てくれたときのことである。出版関係の仕事をされており、いろんなところにいろんなパイプを持っている彼女は、実にたくさんの有用な情報を提供してくれた。減薬を勧めてくれたのも彼女である。そして、もう一つ勧めてくれたものがある。それが「漢方による治療」なのだ。
実際に彼女の知人で、自分と同じように10年以上鬱に苦しみ、自分と同じように大量の薬を服用していて、自分と同じように副作用で苦しんでいた方がいたらしい。その方が、少しずつ減薬を行いつつ、漢方による治療を並行して試してみたら、かなりよくなった、という話である。
こういう病気を抱えていると、いろんな人がいろんなものを薦めてくる。サプリメントやら健康食品やらなんとか還元水とか怪しい宗教とか、そんなものいちいち試していたらキリがないので、全てお断りしている。
しかし、漢方というのは盲点であった。漢方は実際に医療現場で使われており、その有用性は広く社会的にも認められている。自分も「風邪かな」と思ったらまず飲むのは葛根湯だし、それでもよくならなかったら病院に行く。
漢方というのは、主に内科的な疾患に使われるだけと思っていたのだが、どうやらそれだけではないようだ。漢方を専門に使う病院で、精神科医がいる病院もある。彼女は、私の家から比較的近いところで、そういう病院を探してくれて、わざわざ病院に電話をかけて確かめてくれてもいたのだ。
彼女は減薬と漢方を同時に勧めてくれたのだが、どちらも主治医との相談が必要である。減薬に関しては、こんなにたくさんの薬を飲んでいるのに状態がよくならないので、少しずつ薬を減らしてほしい、と「交渉」しないといけない。一方、漢方に関しても、今の主治医にこっそり、というわけにもいかず、その先生が漢方も処方するか確認したり、今の薬と併用して服用しても問題ないか確認しないといけない。
どちらもちょっと切り出しにくい話である。今の病院に通院してからかなり長い。話はよく聞いてくれるいいお医者様だとは思っている。(薬はいっぱい出すけど。)なので、そこの信頼関係を壊さないように気を使わないといけない。減薬にしろ、漢方の併用にしろ、今の主治医の治療を完全に否定するというわけではないが、「今のやり方では不満です」ということを突きつけることになる。ご機嫌を損ねてもらっても困るのだ。減薬と漢方の相談を同時にするのはかなり気がひける。
また、今の自分を苦しめているものとして、「体がしんどい」「疲れやすい」というのがある。これは病気のせいだけでなく、薬の副作用の可能性もある。減薬と漢方を同時並行で行うと、状態が改善してもどちらが功を奏したのかわからなくなる。
そういうことから、まずは減薬だけからお願いするようにした。今は薬を一つ完全に抜いて、もう一種類、かなり量を減らした薬もある。しかし、減薬は慎重に時間をかけて行わないといけない。
だが、実際にやり始めたら、減薬には恐ろしく時間がかかると改めて実感した。服用している薬が多すぎるのだ。そこで、やはり同時並行でやらないといけない、と思い、漢方についての相談もしてみることにした。「漢方もやってみます」というのでなく、「友人から漢方でよくなったという話を聞いたのですが、漢方による治療について、先生のご意見を伺いたいのですが」という切り口で入ってみた。
で、主治医の見解だが、
漢方薬そのもので鬱を治すことはできません。しかし、鬱に伴う身体症状をやわらげるという効果は認めています。自分としては漢方を使うことに対して、完全に否定するという立場は取っていません。
とのこと。
まあ、一部の有効性は認めており、やりたければ勝手にやってもいいよ、と解釈できる。
そういうことで、今朝さっそく漢方専門の病院に電話し、予約を入れた。ちゃんと健康保険の使える病院である。そうでないと、高額でとても手が出せない。3割負担でもいくらかかるのかは未知数だが。とりあえずは相談してみないことには始まらない。
また一歩、新たな可能性に踏み込むことになる。長い目で見なければ。
それは19時頃、夕食でさんまを食べている時に起こった。
「ん?喉が痛いな。さんまの小骨でもささったか?」
ま、小骨だしそのうち取れるだろう、と思って食事を終えたが、まだ喉に違和感がある、というか痛みが出てきた。
「やばい、まじで刺さった」
自分、魚が好きで骨までばりばり食べてしまうので、ときどき骨が刺さるが、たいていはすぐに取れる。しかし、今日は違った。さて困った。
魚の骨が喉に刺さった時の対処法として、一番正しいのは「病院に行く」である。昔からよく言う「ご飯を丸呑みする」というようなことは、絶対にやってはいけない。運が良ければご飯と一緒に骨が取れる場合もあるが、逆に押し込む場合もあって危険である。
しかたがないので、救急医療センターに行った。順番を待っている間、待合室で看護師さんに「どうされました?」と聞かれ、「魚の骨が喉に刺さりました」と答えた。すると、「何の魚ですか?」と聞かれた。そんなことまで聞かれるのか、まあいいや、と思って「さんまです」と答えた。
その後、妻と話をしていると、後ろから「ブリです」という声が聞こえてきた。もしかして、けっこう多いのか?
自分の名前が呼ばれて診察室に入り、医師が「口を開けてくださーい」と言うので開けたら、「あ、これは取れるわ」と言って、ピンセットで一瞬のうちに抜き取った。見せてもらったら、小骨ではなく、もう少し太い骨だった。うう、さんまとて侮るなかれ。
そして診察室を出るとき、看護師さんが大きな声で、
「さんま取れましたー!!」
と威勢よく言った。待合室にも筒抜けである。妻は必死に笑いをこらえていた。私は顔から火が出るほど恥ずかしかった。しかし、さんまの骨が取れたのは本人も医師も当然わかっている。あの看護師さんは誰に向かって言ったのだろう?
その後、お会計で呼ばれたので、窓口に行くと、こう言われた。
「4,430円です」
(・o・)ハッ?
「よんせんよんひゃくさんじゅうえん!?」
びっくらこいた。そんなに治療費がかかるとは思わなかった。
診療費明細を見ると、

た、確かに4,430円。おとなしく払ってから、改めて診療費明細書を見てみる。

手術・・・・・・
咽頭異物摘出術(簡単)、とな。
そっか、「処置」でなく、「手術」になるんだ。たった1秒でも。

その1秒で756点。金額にすると7,560円。その3割だから2,268円。たった1秒で・・・。
それに初診料、休日加算などがプラスされるが、これはまあしかたがない。
魚の骨が喉に刺さって病院に行ったのは、実にこれで3回目である。1回目は子どもの頃、2回目は数年前だが、そのときは行ってみたら骨は取れていて、刺さっていたところが傷になって痛かっただけなので、処置のみ。そのときはそんなに治療費がかからなかった。
それにしても、とっても高い1秒だった。かなりショックである。
最近はまた生活のリズムが乱れ始めていて、昨日も起きたのは10時前くらいだっただろうか。いつものようにスマホでニュースをチェックしたら、
「淡路で震度6弱の地震」
との文字が。
一瞬、かなり焦った。18年前のあの日のことを鮮明に思い出したのだ。
一昨年の3.11では横浜でも震度5弱とけっこう揺れたし、テレビで何回も見た津波の映像も強烈に脳裏に焼きついている。しかし、18年前の阪神・淡路大震災のときの「あの1秒」の衝撃は、それをはるかに上回る。
自分が就職して上京したのが1994年。翌1995年1月17日、自分はインフルエンザで40℃の熱を出し、1日じゅう寮の部屋で寝込んでいた。夜になってからテレビをつけたら、何やら燃えている。画面全体が燃えている。火事?なんだろう?と発熱でぼんやりした頭でぼ~っとテレビを観ていて、そのうち「大変なことが起こった」とようやく理解した。
大阪出身の私は、京阪神地区にはたくさんの友だちがいる。みんな、無事なのか?心配になった私は、ふらふらな頭で友だちに電話をかけまくった。しかし、誰にもつながらない。そんなこと当たり前だった。そんなときに電話をするのは却って迷惑になる。そういうことも知っていた。でも電話をせずにはいられなかった。少しパニックになっていたのだろう。振り込め詐欺に騙されてしまう人も、このように冷静さを失ってパニックに陥ってしまうのだろうか。
翌日も熱が下がらず、会社を休んで部屋で寝ていた。テレビはベッドの後ろに置いていたので、寝ている状態では映像は見えないのだが、状況が知りたくて、テレビをつけっぱなしにして音声を聞いていた。
やがて、テレビでは死亡が確認された人の名前が読み上げられていった。そして不意打ちのように、その名前が耳に入った。
「神戸市○○区 ○○☓子さん」
神戸に住んでいる学生時代の友だちの名前だった。自分は脊髄反射のごとくベッドから飛び起きてテレビを見た。
・・・・・・別人だった。同姓同名だが、名前の字も年齢も違った。
人生であんなに焦った瞬間があっただろうか。あのとき、名前が聞こえてからテレビを見るまでの、わずか1秒ほどの瞬間は、今でもスローモーションのように鮮明な記憶となって脳裏に焼き付いている。
その夜だったか、次の日だったか、その友だちの安否が確認できた。彼女はひとり暮らしだったが、実家に電話をかけてようやく無事がわかった。彼女は神戸市の職員だったので、当時はかなり大変だったらしい。
昨日の淡路での地震のニュースを見た瞬間、18年前の「あの1秒」の記憶と、その時の衝撃が一瞬のうちに自分の中に再現された。
今も神戸に住んでいるその友だちにメールをしたところ、神戸は震度3くらいだったとすぐに返事が返ってきた。大丈夫だろうとわかっていても、心配なものは心配なのだ。
震災というのはこんな形でもトラウマを残すのか。そもそも、これはトラウマと呼べるのだろうか。