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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2013年7月16日

今日、京都の叔父が亡くなった。

1ヶ月くらい前に、心筋梗塞で倒れて一時は心肺停止状態になったが、その後蘇生し、心臓カテーテルの手術を行なって一命を取り留めた。しかし自力で心臓を動かせず、生命維持装置をつないでいる状態になった。今夜が山だ、とそのとき連絡があった。

その後、叔父はもちなおしたのだが、心停止していた時間は20分もあったという。蘇生するまでそんなに時間がかかれば、おそらく脳細胞はほ壊滅的な状態だろう。意識は全く戻らない状態だった。

そして今日の昼、兄から「昨日お見舞いに行ったけど、もう今週いっぱいらしい」という連絡があった。しかしそれから容態は急変し、その後亡くなったとの連絡を夜に受けた。

まだ詳しい連絡はないが、明日中に京都に移動するための用意を、今一生懸命している。自分自身、体調面でも経済面でもしんどいところだし、父からも兄からも「お前は無理せんでええ」と言われている。しかし、自分はできることなら行って叔父の顔を一目見て、見送りたいのだ。

父は三人兄弟の長男で、今日亡くなったのは下の弟である。上の弟であるもう一人の叔父も、10年以上前に50代の若さで亡くなった。その告別式の「最後のお別れ」で、お棺に横たわる叔父の顔を見た瞬間、

「もう、この人には一生会えないんだ。この顔を見れるのは、本当にこれが最後なんだ」

ということに気がついた。そして涙がボロボロこぼれて止まらなかった。子どもの頃は1年に1回くらい会っていた叔父だが、その後はそんなにたいした付き合いはなかった。だけど、そのときは悲しくて悲しくてしかたがなかった。

死んだ人には二度と会えない、という当たり前のことを、そのときはじめて実感した。「人が死ぬこと」とは、こういうことなんだ。何をどうしても、その顔を見ることは一生できない。

だからこそ、今日亡くなった叔父もそんなにつきあいがあったわけではないが、最後にひと目だけ顔を見たい。骨になってしまう前に。

自分のコンディションがどうなるかは、明日になってみなければわからない。でも、できるだけのことはしたい。義理だとかそういうのではなく、純粋に人として。