TOPに戻る
鬱るんです
躁鬱病の元ITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、派遣のエンジニアをやったり小さなIT企業でほそぼそと働いたり、Web制作事業を立ち上げようとしたりしたが、今は就労継続支援B型事業所でリカバリーを頑張っている毎日。

今日は12月24日、クリスマスイブ。実は妻と付き合い始めたのが2001年12月24日で、非常に覚えやすい記念日である。この日は私の人生で一番ロマンチックな日だった。先日「初めて彼女ができた話」というのを書いたが、今度は妻と出会ってから付き合うまでの話までを書いてみることにする。便宜上、私のことは「Hさん」と表記している。本文中、精神科の入院生活に関する記述など直接関係ないことも出てくることもあり、大変に大変に大変に長くなってしまった。その割に読み物としてはたいして面白くない。本当に暇な人だけ読んでくださいな。

私はうつ病を発症し(実際は躁うつ病だが最初の診断はうつ病)、2回休職したのに良くならずに3回目の休職でついに精神科に入院した。2001年8月のことだった。病院は古くておんぼろだったが、敷地は広大で海と山に囲まれており、環境はとても良かった。敷地内に小山なんてあったりした。そこに7ヶ月くらい入院していた。

入院した時は、こんなところに入ることになるなんて人生もうお先真っ暗だと思っていた。しかし慣れてくると入院生活はけっこう楽しかった。開放病棟だったので散歩も自由にできたし、病棟には卓球台もあり、私をはじめとして卓球経験者が他にもいたのでけっこう本気の卓球もしていた。他の入院患者と親しくなって一緒にお喋りしたり散歩したりして、のんびり療養に専念できた。ただ、いつになったら出られるんだろうという不安はつきまとっていた。

入院して1ヶ月くらい経った頃、1人の女の子が入院してきた。暗い沈んだような表情をしていた。親しい仲間で朝の散歩に行くのがみんなの日課だったのだが、私と仲の良かったSくんがその子も誘ってみて、一回だけ一緒に行った。その時、「どこに住んでるの?」と誰かが彼女に尋ねると、「○○駅の近く」という。うん?その駅は私の最寄り駅だぞ?もっと突っ込んで聞いてみた。

「○○駅の近くって、どの辺り?」
「××町」
「え?俺、その隣町だけど。と言うか1分歩けば××町だけど。××町のどの辺?商店街の辺り?」
「うん、不二家の近く」
「え?て言うことは小学校の近く?」
「うん、近く」

なんという偶然だろう。そこは私が住んでいたワンルームマンションから徒歩5分の場所である。近くの病院に入院したのなら偶然一緒ということもあり得るが、そこは電車とバスを乗り継いで1時間半くらいかかる。ぜんぜん別のルートで紹介されてきたのに、そんなご近所さんが同じ時期に入院してきたのだ。

彼女は内向的な子で、その後は一緒に散歩に来ることはなかった。精神科の入院生活というのは独特で、どこでも同じかどうかはわからないが、ホールという食堂兼憩いの場、みたいな場所があって、食事も病室ではなくそこでみんな一緒に食べる。そして日中は、もちろん病室で休んでいてもいいが、ホールに出てきてみんなでお喋りしたりゲームしたり卓球したりテレビを見たり、という生活だった。しかし彼女はめったにホールには出てこなかった。顔を見るのは食事のときだけ。そしていつも暗く沈んだ顔をしていた。何かに怯えているようだった。そんな彼女のことがちょっと気になっていた。

ある日私が入浴しようとすると、珍しくホールにいた彼女から「Hさん、薬の本持ってるって聞いたんですけど」と話しかけられた。なんで知ってるのかと思ったが、同室の人とはけっこう話をしていたらしい。当時私は分厚い「医者からもらった薬が分かる本」という本を持っていた。今なら薬の情報なんてネットですぐ調べられるが、その頃はそこまで情報化が進んでいなくてそういう本が頼りだった。何人もの患者に「ちょっと貸して」とその本は重宝されていた。みんな自分がどんな薬を飲んでるのか知りたいのだ。

私はその本を貸してあげてから風呂に入った。出てきたら、まだ彼女はその本を読んでいた。「見方がよくわからないんですけど」と聞かれたので、教えてあげるついでにいろいろ話をした。長時間話をしたのはそれが初めてだった。その時、はじめて私は彼女の笑顔を見た。普段の暗い表情からは想像できない、素敵な笑顔だった。

それから彼女はちょくちょくホールに出てくるようになった。意欲が出てきたのでビーズ細工をしようとしたら、それに使用するペンチが危険物として看護師預かりになっており、使うときだけ渡してもらってホール(看護師の見えるところ)で使うこと、ということになっていたからだという。精神科病棟で医療スタッフが一番気をつけているのは「患者に自殺、自傷行為をさせない」ことなので、刃物類や紐類、液体洗剤その他危険物は看護師預かりにするか、必要なければ家族に持ち帰ってもらうことになっていた。

彼女はいつも一人で黙々とビーズ細工をしていた。そんな彼女を私は放っておけず、ホールに出てくるたびに話しかけるようになった。朝食でホールに出てくるときにも「薄着だね、俺なんかパーカー着てるよ」「年とったんじゃない?」なんて話をするようにもなった。少しずつ彼女との距離が近づいている気がした。

2ヶ月くらいして彼女の退院日が決まった。私は焦った。退院する前に連絡先を聞かないと。いくら近所に住んでいると言っても、偶然会うなんて期待していてはいけない。でもなかなか聞く機会がなかった。表立って聞くのもちょっとはばかられた。患者同士で連絡先を教えてはいけないのだ。トラブルの元になるからである。それどころか「院内恋愛禁止」というのも暗黙のルールだった。いや、その時は暗黙だったが、その病院に2回目に入院した時には「入院生活の手引き」という冊子に「院内恋愛禁止」と明記されていた。これは、そういう病気の人同士でくっつくと治療上好ましくないからである。

そして明日退院してしまう、という日の夜。洗面所に歯を磨きに行ったら、なんと偶然に彼女だけがいた。そこでようやく「連絡先、教えて」と言うことができた。彼女はにこっと笑って「明日ね」と言った。そして翌朝、携帯の番号とメールアドレスを書いた紙を手渡してくれた。嬉しかった。昼になって家族と一緒に彼女が退院していくのを見送った。「メールするね」。私が言おうと思っていた言葉を、彼女から言ってくれた。

この病棟では携帯電話の所持も禁止されていた。それも看護師預かりで、外出か外泊のときだけ返してもらえる。PCなどの機器は持ち込み禁止だった。だから外界との連絡手段が公衆電話だけ、という人がたくさんいた。ただ、こっそり隠し持っている人もいた。ご多分に漏れず私もそうだった。看護師にはもう解約して不要になったダミーの携帯を預けていた。それだけでなく、私はハンドヘルドPCと呼ばれる、現在のスマホの元祖の元祖みたいな携帯情報端末を「電子手帳です」と少しごまかした説明をして、主治医に使用許可をもらって使っていた。実はそれとカード型PHSを使用して日記をWebで公開したり、メールをしたりもしていた。その端末で彼女とのメール交換が始まった。

彼女が退院して2週間くらいだっただろうか、彼女と、彼女と同室だった女の子が外来に来たついでに病棟に顔を出した。その二人と一緒にしばらくみんなで話をしていたのだが、彼女によると、いや他の人にも言われたのだが、そのときの私は「ものすごくわかりやすかった」らしい。なんせ女の子二人で来ているのに、ずっと彼女の方しか見てなくて、嬉しそうに興奮して喋っていたらしい。二人が帰った後、他の患者に「Hさん、彼女のこと好きでしょ」とダイレクトに言われてしまった。それからその患者は私のことを猛プッシュしてくれたのだ。

精神科の入院生活は、病院内で状態が安定したらすぐ退院というわけではない。ストレスフリーな病院の中からストレスフルな社会にいきなり復帰したら、そのギャップですぐに調子を崩すパターンが多いのだ。なので、短時間だけ病院の外に出て帰ってくる、それに慣れたら長時間、それに慣れたら自宅に1泊して帰ってくる、それに慣れたら2泊、というように徐々に病院の外にいる時間を長くしていく「外出訓練」「外泊訓練」というストレス耐性訓練を繰り返して、自信がついた頃に退院、というパターンが多い。その外出、外泊の時間を利用して彼女と会おうと思ってメールした。

しかし、やがて彼女からメールが返ってこなくなった。何回送っても返事がない。おかしいな、この間まで返事をくれたのに。ちょっと焦ってきた。全く返ってこないわけではない。何日も経ってから返ってくるという状態。嫌われたのかな?だんだん心配になってきた。その頃、音楽仲間でやはりうつ病を抱えている女の子と食事をしたのだが、彼女に「これって脈ないのかな?」と相談しても、う~んなんとも言えない、というようなことを言われた。メールで他の女の子に同じことを聞いたら「脈ないんじゃない?」と素っ気なく返ってきてへこんだ。

実は、彼女の携帯は当時のJ-PHONEだったのだが、その頃「インターネットからのメールがJ-PHONEの携帯に届きにくい(何日も遅延する、あるいは届かない)という障害が慢性的に発生していたことが判明した。J-PHONEのシステムがタコだったのだ。自分が送ったメールは3通まとめて彼女に届いたりしていた。月曜日に「次の日曜日にご飯でも食べに行きませんか」と送ったのに、それが土曜日に届いて「そんな急に言われても」と思ったらしい。彼女からは「明日は無理です」と言う返事が返ってきてショボーンとしていた。

メールの遅延はJ-PHONEのシステム改善で解消されて、ようやくまともにメール交換ができるようになり、約束を取りつけて彼女と外出先で会うことができた。「おいしいものを食べに行こうよ」と言って誘って行ったのは、ハングリータイガーという横浜ローカルなハンバーグ屋。彼女は「おいしいものってハンバーグかい(笑)」とか思ったらしいが、病院食に飽き飽きしていた私は肉が食べたくてしかたがなかった。

その後はどうしたっけかな。喫茶店でお茶をして、適当にお喋りして病院に帰った記憶がある。そしてその次だったか次の次の週だったか、また一緒に食事した。ゲーセンへ行ってプリクラを撮ったりもした。確か11月半ばだったと思うが、その時に「12月24日って予定ある?」と聞いたら「ないよ」と言うので、「その日遊びに行かない?」「いいよ」ということになった。クリスマスイブに会ってくれるというのだ。「よっしゃっっっっああああああ!!!」と思った瞬間である。

やがて、それまではメールだけのやり取りだけだったのに、散歩中に携帯で電話で話すことも増えてきた。万が一見つかったら取り上げられてしまうので、携帯は緊急時以外使わないことにしていた。しかし彼女の声が聞きたくてこっそり電話することが多くなった。敷地が広大なので見つからずに電話する場所はいくらでもあった。普段自分はあまり携帯で通話しなかったのでそういう人向けのプランを組んでいたら、請求が2万円を超えてびっくりした。

どういう話の流れだったか忘れたが、「うちに余ってるパソコンあるけどいる?」とメールに書くと、「ほしい」と言うので彼女の家まで持って行くことにした。コンパクトではないデスクトップPCと、今では見なくなったでかいCRTディスプレイである。彼女に自分の部屋に来てもらい(あまりの散らかりように呆れたらしい)、私がPCをよっこいしょと担いで、彼女は家から持ってきた園芸用のカートみたいなのにディスプレイをくくりつけて彼女の家まで運んだ。徒歩5分なんてものではない。3分で着いた。めちゃくちゃ近距離である。デスクトップPCをあげるなんて、徒歩3分ならではのなせる技である。

彼女の家にお邪魔し、PCをセッティング。とりあえず長い電話線を買ってきていたので、PCからモジュラージャックまでだら~っと電話線を延ばして、プロバイダの登録もやってあげた。まだダイヤルアップの時代だった。彼女はそれまでPCを持っていなかったのでインターネットデビューである。登録の際に生年月日を入力する必要があったので、彼女に聞いたら「1971年12月22日」と言う。

「1971年12月22日?」

私は二度びっくりした。まず1971年生まれといったら、次の誕生日で30歳になるではないか。私はてっきりまだ20代半ばくらいだと思っていた。私と2歳差。「ちょうどいい!」と思った。それに12月22日というとクリスマスの直前である。「誕生日とクリスマス、まとめられてなかった?」と聞くと、「うん、まとめられていた」と答える。う~ん、困った。私はまとめたくない。12月24日には会う予定なのだが、その2日前に誕生日とは。クリスマスプレゼントは当然渡す予定だったが、誕生日プレゼントもそれはそれであげたい。考えた末、誕生日には花キューピットで花を送った。彼女は喜んでくれたらしいが、私がメッセージカードに書いた「ようこそ30代へ」という一言にショックを受けたと後々言っていた。女心のわからない私である。余計なことを書いてしまった。

話がそれたが、プロバイダの契約もしてネットのセッティングもして、使い方を教えてあげた後、ひと仕事残っていた。それはPCからモジュラージャックまでだらりと垂れているケーブル。1部屋またいでしまうほど距離があった。これを柱と梁に這わせるという作業をやっていった。古い家で梁に穴を開けてもいいいうので、ホチキスの針みたいなやつでケーブルを固定していく。これがなかなか苦戦。半分くらいやったところでもう夜になってしまい、続きはまた明日ということになった。実はこの一生懸命やっている私の姿を見て、彼女は「この人ちょっといいな」と思い始めたそうだ。

その時彼女が「ご飯食べていく?」と言ったのでびっくりした。そして夕飯をご馳走になることになった。彼女の父親は既に亡くなっており、今は母親とふたり暮らしだという。彼女と彼女の母親と私の3人で鍋をつついた。彼女の母親とはその時にスポーツの話題なんかで盛り上がって仲良くなってしまった。まだお付き合いもしていないのに、こんなに懇意にさせてもらっていいのだろうか、なんて思っていた。彼女の母親はなんだか第六感の冴えた人で、彼女がまだ入院中に面会に来たとき、彼女が私を指して「最近はあの人とよく話すんだよ」と話すのを聞いて「この子はあの人と付き合うんじゃないかしら」と思ったそうだ。

12月24日当日。彼女は気合の入ったメイクをして待ち合わせの場所に現れた。病院ですっぴんのままいつも暗い表情をしていた彼女とはまるで別人だった。私は張り切ってデジカメにデジタルムービーまで持ってきて、彼女の写真ばっかり撮ったりビデオカメラを回したりしていた。忙しい人、と思ったらしい。

予定ではまず本牧に行って「ハリーポッター」を観ることになっていた。本牧というのは交通の便が悪いのだが、映画館も飲食店もあるし地元民にとってはちょっとした穴場である。思ったとおりあまり混んでなかった。まず映画館で午後の回の指定席を取った後、近くのレストラン(確かイタリアン?)で昼食。実は、もちろんその日に告白するつもりだったのだが、どのタイミングで言うかは決めていなかった。タイミングを見計らって、と思っていたのだが、食事している時に彼女にクリスマスプレゼントを渡して、喜んでくれている時に思わず「俺たち、つきあうことにしない?」と言ってしまった。彼女は一瞬の間のあと、にっこり笑って「うん」と言ってくれた。

今につながる妻との時間の始まりである。

その告白の言葉は実は私は覚えていなかったのだが、妻がはっきり覚えていた。今から考えたら、一番最初に告白するというのは大きなリスクを伴う。それでダメだったら、もうその日のデートはなんにもならないのだ。でも最初に告白してうまくいったおかげで、その日のデートはもうそこから恋人気分だった。おかげでとても楽しかった。

映画を観た後は、確か元町の方をブラブラして、そこから山下公園に行って、最後はみなとみらいを歩いたと思う。クリスマスイブの横浜はどこへ行っても気合が入ってきれいでロマンチックな雰囲気を演出していた。大道芸でバルーンアートをやっている人がいたり、リコーダーの4重奏をストリートでやっている人たちもいた。クリスマスソングを演奏していたっけな。観覧車に乗ろうと思ってコスモクロックへ行ったのだが長蛇の列で諦めた。

夜になって、運河パークだったか日本丸のところだったか忘れたが、紙に願いを書いて、それを丸い透明なカプセルの中に入れて水の中に投げ入れる、というイベントがあったので参加した。「この時間が永遠に続きますように」というようなことを書き、二人でカプセルを投げ入れたのが印象に残っている。カプセルの中には小さなライトが入っていて、水の上は光を灯ったカプセルで埋め尽くされていた。とても幻想的できれいだった。その日のデートで一番ロマンチックな瞬間だった。

その後、夕食を食べようと「ラケル」というおいしいオムライス屋さんに行ったら、そこも長蛇の列。でもせっかく来たから並ぼうよ、ということで並んでいた。すると彼女は携帯を取り出して片っ端から友達に「彼氏できたー!」とメールしだした。そうか、もう俺、彼氏なんだ。ちょっと照れくさくなった。少しすると「おめでとー!」というメールが何通も返ってきたのだが、その中に「私もー!」というメールがあって二人で笑っていた。実はその子と彼女は前日に会っていて、二人とも明日気になっている人と会うことになっているという話をしていたらしい。彼女の方は「多分くると思うんだけどね」と話していたのだが、その子の場合は「いまいち向こうは何考えてるかわからないのよね」とか言っていたそうだ。二人ともハッピーになって良かったね、ということ話をしたと思う。

そうして食事をして記念すべきクリスマスデートは終わり、超近距離恋愛が始まった。最後は私の部屋まで来たのだが、前に来た時はものすごく散らかっていたのに、それがきれいになっていたのでびっくりしたらしい。頑張って片付けたのだ。しんどくて全然片付けなんかできなかったのでずっと放置していたのに、恋愛の力というのはすごいものだ。

二人とも精神科なんかに入院して人生どん底だと思っていたのに、そんなところで生涯の伴侶が見つかるとはまさか思っていなかった。運命の神様はなかなか粋な計らいをしてくれる。

なんか尻切れトンボのような感じになってしまったが、書きたいことは全部書いてしまったからまあいいや。なんかダラダラと長くなってしまった割に、先日書いた「初めて彼女ができた話」よりも読み物としてはつまらなくなってしまった。もっと簡潔にしたほうがいいのかもしれないが、めんどくさいのでこのままアップしよう。

それにしてもよく覚えているなあと自分ながら感心する。観た映画の内容は覚えてないのに、自分の身の回りに起こったことはしっかりと覚えているものだ。それだけ夢中だったということかな。これからもよろしくお願いいたします。と妻に言ってみる。

山下公園にて。その日の氷川丸。

氷川丸


コメントする

メールアドレスは公開されません