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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2018年12月21日

今日は9時起床。また最初に勤めていた会社が出てきた。なにかのテストを受けていたのだが、さっぱりわからない。問題の意味すらわからない。自分がずっと会社を休んでいたときにみんなが教わったことなので、自分だけぜんぜんわからなくて困っている、そんな夢だった。嫌な夢だ。

午前中は読書。「誰にもわかるハイデガー」を一気に読んでしまった。詳細は前の記事に書いたが、超難解な本を超大雑把に解説されてなんとなくわかった気にさせられる本だった。あとには何も残らない。

午後イチで生協のカタログを見ながら来週届けてもらうものを選んでいく。お正月特集で、おせちの具材などうまそうな食材がたくさん載っている。うう、目の毒だ。こういう少しお高いものには手が出ない。一年に一回くらいちょっと贅沢を、とか思ったりするけど、結局いつもまあいいやで終わる。

その次の週が生協の正月休みで配達がないので、できるだけ多めに頼まなければいけない。うちはメインのおかず(ほとんど冷凍食品)をはじめ、水やら牛乳やら米やら重いものは生協頼みなのだ。たっぷり頼んだけど、冷凍庫に入るかな。それでも多分足りなくて買い物に行かないといけないだろうけど。ネットで注文を入力したらお会計は6,639円。ひえ~今までの最高記録なり。

午後はそのあと、前にも書いたがAndroidのChromeをデータセーバーOffにしたときに、ローカルサーバ、つまりこのサイトにWebアクセスできない問題を調べていた。以後、ほとんど自分の備忘録。

Chromeで接続できない

ネットワーク診断ツールでPING、HTTP接続はOK。名前解決はできているし80番ポートも通っているし、サーバにログも出る。他のブラウザ(Firefox、Opera Mini)で試したらちゃんと表示されている。WAN経由(プロキシ経由)でなくLAN経由なのはApacheのログから見て間違いない。なぜChromeだけ接続できないの?ログを見ててもパケットが来ていない。不思議なのは、同じセグメント上のブロードバンドルーターやWi-Fiアクセスポイントの管理画面にはHTTP接続できてログイン画面が出るのだ。なんでサーバだけ接続できないの?一番考えられるのは、なんらかの原因でChromeがサーバのアドレスとしてルーターのWAN側のIPアドレスを見ているということだが、それを確かめる方法はないのかな。ルーターで全てのパケットのアクセスログを見るか、端末側でChromeからサーバにアクセスするパケットをtcpdumpみたいので監視できればいいのだが。

と苦戦しているうちに、いつの間にかアクセスできるようになった。そう言えば前もそうだった。なんかわからんが時間が経つと解決したのだ。いやそれは解決になってないのだが。Chrome側でなにか良からぬものがキャッシュされていて、その期限が切れたからアクセスできていたような気もする。あ、そうか。データセーバーをオンにしていると、ローカルアクセスでもプロキシを経由するからサーバのホスト名を名前解決したらWAN側のIPに変換されるのか。さてはそれをキャッシュで保持していると見た。ちょいと調べたら「スマホを再起動」でDNSキャッシュがクリアされるとな。また今度試してみよう。

今日はそれにかかりっきりだったので外出できなかった。まあ今日はいいや。

アドベント企画第2段。MONKEY MAJIK × 稲垣潤一 × GAGLE「クリスマスキャロルの頃には -NORTH FLOW- (Short Ver.)」
稲垣潤一の曲を、本人も交えて仙台コラボ、らしい。原曲よりいい。ところでこの動画の字幕をオン(右下のメニューから設定できる)にすると、ちょっとおもしろいことが起こる。

筒井康隆「誰にもわかるハイデガー」読了。ハイデガーの「存在と時間」という本を、超ざっくりと解説するという内容。原著はめちゃくちゃ難解で、例えばこんな感じなんですね、と引用が出てくるのだが読んでも何を書いているかさっぱりわからない。

現存在は、他の存在者のあいだで出来(しゅったい)するにすぎない一つの存在者ではない。現存在が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、現存在のこうした存在機構には、現存在がおのれの存在においてこの存在へと態度をとる或る存在関係をもっているということ、このことが属している。しかもこのことは、これはこれで、現存在が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解しているということにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身に開示されているということである。存在了解内容はそれ自身現存在の一つの存在規定性なのである。現存在が存在的に際立っているということは、現存在が存在論的に存在しているということによる。

こういうのを、一般の人を前にして講演会で噛み砕いて解説した内容を書き起こしたのがこの本。それでもちょっと難しい。筒井康隆自身も解説していながら「ここのところはちょっと僕もよくわからないんですけど」とか言ってたりする。とにかく「存在と時間」という本は難解らしい。読んでてまあ言いたいことはわかるけど「で?」ということが多い。結局哲学ってのは死の恐怖を克服するために出てくるものなのか。逃げてはいかんとな。死から目を背けるのは頽落(堕落)だと。人はやがて来る死を受け入れることによって良心的になる。本当かなあ。