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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

月別アーカイブ: 2013年8月

ある人が、殺意を持って人を刺した。
刺された人は、搬送先の病院で死亡した。
刺した人は殺人罪で起訴された。 

ある人が、殺意を持って人を刺した。
刺された人は、運良く命を取り留めた。
刺した人は殺人罪でなく、運良く殺人未遂で起訴された。

全く同じ行為を行っても、被害者が死んだか死ななかったかで適用される罪名が異なり、結果的に判決も変わってくるだろう。

そういうものなのか?

人はいつか死ぬ。いつ死ぬか自分ではわからない。しかし、明確にわかるときもある。それは、その「いつか」が、お偉いさんのさじ加減一つで決定される時。

ブザーが鳴った後、3人の刑務官がボタンを押した瞬間、まるでバラエティー番組のセットのように処刑台の床板が外れ、一人の人間の命が一瞬にして奪われる。

それは、法の名のもとにおいて、人間が人間を殺害する瞬間。憲法で定められている法の下の平等はこの時点で崩壊しており、生存権は剥奪されているのだ。

 

彼、あるいは彼女は、確かに第三者の命を奪ったかもしれない。

それによって、被害者の家族を含めて多くの人を悲しませ、苦しめたことだろう。

しかし、彼、あるいは彼女にも親兄弟や友だちはいるだろう。その人たちには何の罪もない。それでも、刑が執行されると、被害者の遺族同様、肉親、あるいは友人を失う、という憂き目にあわなければならない。

 

正義とは何か。

「死を持って罪を償う」という言葉の意味が自分には理解できない。
死んでしまったら何も償えないではないか。

刑が執行されることによって、彼、あるいは彼女の罪は償えたと言えるのだろうか。それで被害者遺族は納得するのだろうか。「ざまあみろ」「せいせいした」と万歳三唱するかもしれない。しかし、それで罪は消えるものでもなく、許されるわけでもなく、償えるものではない。

江戸時代に認められていた「仇討ち」は、依然としてこの国の文化として残っているのか。身内を殺されたら、殺してもいいのだ。警察が、検察が、裁判官が、刑務官が代わりとなって。

 

報復合戦の拡大を防ぐための法令であるハムラビ法典が、

「目には目を、歯には歯を」

の一文で、全く逆の意味に誤解され、広まっている。その方がこの国の人間にとっては都合がいいのだろう。

自分はない。
厳密に言うと、殺そうとしたが、失敗した。
あとちょっとのところだった。

こういう場合は、殺人未遂ということにはならないのか。

自殺は他殺か否か。

妻は虫が嫌いだ。

「あ、虫!」

という妻の言葉とともに、一瞬のうちに仕留められる。

この虫は、ただそこに存在するというだけで、なぜ殺されなければならなかったのだろう。

自分は昔から空想癖がある。

夜に寝る時、いつも何か「自分にとって都合のいい世界」を空想しながら眠りについていた。自分の記憶では、小学校1年生の頃からやっていたと思う。そのうち寝る前だけでなく、何もやることがなくて手持ち無沙汰のときなど、日常生活でもたびたび一人で空想の世界を楽しむのが癖となった。

そして、徐々に自分の意識が空想に邪魔されるようになっていった。何かをやろうとしても、いや、やっている最中でも、気がつくと空想の世界にどっぶり浸かっている。あ、いかんいかん、そう思って空想を振り払い、本来やっていることの続きをする。これは中学生頃だったと思う。

今ではそれが、自分でも病的と思えるほどひどくなった。何かをしながら、同時進行で空想をしているのだ。たとえばテレビを見ている時、食事している時、人と会話しているときなど、脳の半分ではちゃんとやることをやっていながら、もう半分では空想が回っている、そんな状態にしばしば陥るようになった。一日中頭の中で空想がぐるぐる回っているときもある。

子供の頃からの空想癖は、自分で意識して作り上げた世界を頭に描いていたのだが、最近自分の頭に現れる空想は、自分で意識して作ってない。勝手に登場人物が出てきて好き勝手しているような状態。いつの間にか頭の中で、もう一つの自分の人格が勝手に何かを空想しているようだ。もう一つの人格といっても、それは多重人格における交代人格とは違って、それもまた自分自身の人格である。

ここまでくると、もはや空想とは言えない。白昼夢が頭の中をぐるぐると回っているようだ。その内容は、身の回りのことやら、自分の過去や未来のことなどさまざま。特に最近は過去のトラウマに関して、ずっと気になっていること、今でも知りたいと思っていることについて、実際に「その人」と話をしている、という空想が多い。

面白いというか恐ろしいというか、その無意識の空想の中で、ずっと忘れていたことを思い出して、ハッとすることもある。

あの時「その人」はみんなの前で「死にたい」と言った。泥酔していたので本人は覚えてないだろうが、そばにいた自分も死にたい気分だった。

もう20数年前のできごと。なぜ今になって突然頭に浮かぶのか。無意識の領域に押し込められていた記憶が、突然よみがえる。

 

 

妻は寝るときに頭を空っぽにする、と言う。自分は「頭を空っぽにする」ということができない。常に何かを考えている。常に頭の中で何かの思考が働いている。

どうすれば頭の中を空っぽにできるのだろうか。