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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2010年1月18日

今日はテキサスバーガーどころか、しんどくて朝から晩まで寝ていた。

一日中寝ていたというと、そう今から15年前の1月17日もそうだった。大学を卒業して長年住み慣れた関西から上京した社会人一年目の1月17日、私はインフルエンザにかかり、40℃の熱が出て一日中会社の寮の部屋で寝ていた。その日はしんどくて病院にも行けなかった。

夜になってからなんとか起きてテレビをつけてみた。ニュースでは何か大きなものが燃えている映像が映し出されていた。熱で朦朧とした頭で「どこかの工場で火災でもあったのかな」と思ってい見ているうちに、とてつもなく大変な事態が起こっていることがようやく理解できた。

1995年1月17日。阪神淡路大震災。

大阪出身で京都の大学に通っていた私は、京阪神地区に友達がたくさんいる。ネットにアクセスすると、既に安否情報が飛び交っていた。私は友人に電話した。繋がらない。こういう災害の時は安否確認の電話は、心配かもしれないがしてはいけない、と知っていたのにそのときはそんなことは全く頭の中になかった。人間テンパったらそんなものかもしれない。

次の日、まだ熱の下がらない私はテレビをつけっぱなしにしてベッドで寝ていた。テレビでは地震のニュースを延々やっていて、身元が確認された犠牲者の名前が読み上げられていた。画面は見てないが、テレビの音は聞いていた。そしてある犠牲者の名前が読み上げられたときのことだった。

「神戸市○○区、△△××さん」

私は驚愕のあまり、動けなくてぐったりしていたのが嘘のように反射的に起き上がってテレビの画面を見た。

同姓同名だった。

私の友人と、住んでいる区も名前も同じ犠牲者の方がいたのだ。テレビで見て、字も年齢も違ったのでほっとしたが、あの時の驚愕の瞬間はは未だにスローモーションのように鮮明に覚えている。

私の知人で亡くなった人はいなかったが、家が全壊してしまった人やその他被害を何らかの形で被った人は何人もいる。私の実家は幸いにも大阪でも京都寄りで、震度5くらいだったらしく、大きな鏡が落ちて割れたくらいですんだらしい。

私は今、いつ地震が来てもおかしくないとずっと前から言われつつまだ来ていない場所で暮らしている。私のコンテンジェンシープランは大丈夫か。ハイチの大地震の状況をテレビで観ていて、自然災害の恐ろしさを改めて知るとともに、今一度万が一の事態に備えて今の自分は何をすればいいのか、見直すべき機会であろう。