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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

月別アーカイブ: 2001年9月

昨日は疲れていたので20:00過ぎに眠剤をもらって早々に寝た。目が覚めると3:00だった。そのときにトイレに行ってまた寝たら次は5:30に目が覚めた。そのとき、自分の中に小さな鬱の種があるのを感じた。「ヤバイ」そう思った。このまま寝てしまったら、この種はどんどん大きくなって、また起きられなくなってしまう。今、今のうちに起きてその種を握りつぶしておかなくちゃ。そう思ったが、また寝てしまった。

6:00。起床を知らせる放送が入る。動けなかった。
6:30。ラジオ体操が始まる。やはり動けなかった。
7:00。朝食だけど、起きて朝食を食べに行くことはできなかった。

食事は1時間しかとっておいてもらえない。7:00を過ぎても私が起きてこないので看護婦が呼びに来たが、「起きられません」「眠いの」「違うんです。動く気力がないんです。鬱が来てるんです」そう答えるのがやっとだった。

8:00を過ぎてから看護婦がまた呼びに来てくれた。「薬も飲んでないでしょ。飲みに来なさいよ」そうだ薬だけは飲まなくてはいけない。一人暮らしのときは、鬱に陥ったときに食事もろくに摂らないところか薬も飲み忘れて、ますます悪循環に陥ったから。私は念じた。「手よ足よ、活性化しろ!」するとなんとか起きることができ、薬を飲みに行った。薬を飲んでいると、看護婦が「ご飯食べられる?今ならまだとってあるよ。食べようよ」優しい看護婦だ。もう8:00を過ぎているというのに、とっておいてくれているのだ。寝ている状態で鬱に陥ったとき、一番の難関は「起きあがって動くこと」までだ。一度動いてしまえば、案外その後は浮き上がってくることが多い。「はい、いただきます」私はそう答え、病室に戻って箸を取ってきた。その間に看護婦はご飯を温めてくれていた。朝食を食べ始めたのは8:20頃だった。食べ終わった後、お盆を下げて看護婦さんに「どうもありがとうございました」心から感謝した。鬱に陥っているときに、自分を引っ張り上げてくれたこと、そして時間を過ぎても食事をとっておいてくれたことに、本当に感謝した。

今日の午前中は通常なら作業療法だが、今日は職員の都合で作業棟が急に休みになったらしい。ちょうどいいや、無理する必要はないし。ゆっくり本でも読もう。

鬱が入った原因はだいたい予想できる。昨日、思いのほかエネルギーを使っていたのだ。肉体的疲労だけなら眠れば回復するが、人混みの中での精神的エネルギーを消費した反動は、「睡眠障害」という形で現れるか、ぐっすり眠った代わりに翌日に「鬱状態」という形で姿を見せる。

午前中いっぱいかけて「道は開ける」を読み終えた。最後の章は「私はいかにして悩みを克服したか」という実例集であった。これらを読んでいると、この本に書かれていること全てを実践する必要はなく、「自分にとって効果のある悩みの克服法」を1つ2つ実践して成功した例ばかりであった。「皆さんも過去において役立った法則の一覧表を作ったらいかがであろう」と書いてある例もある。確かに、この本に書かれていることはあまりにも多すぎて、すべてを生活に採り入れるのは難しい。私も自分にあった悩みの克服法を探すことにしよう。

途中、ホールに一服しに行ったとき、Oさんが相田みつをの本を読んでいた。「相田みつを、いいですよね」と私が言ったら、あとからその本を貸してくれた。いい本は自分で持っていたい。読んでみて気に入ったら買ってみよう。

昼食が終わって病室に戻ると、最新の日経コンピュータが来ている。目次を見てセキュリティ関連の記事をチェックし、そのページに付箋を挟んでおいた。まだ付箋が挟まっている別の雑誌があるので、その下にまわす。試験まではまだあと1ヶ月近くある。直前になればこれらをざっと読み返そう。

少し休んだ後、売店に行ったついでに敷地内をぐるっと一周散歩する。今日も日差しがきつく、暑い。歩いているだけで汗が出てくる。

服薬後、一服してからリラックス体操。これもほぼ日課となっている。どうも背中の中心部分がじんじんする。やはり私の場合、一番悪いのは背中らしい。自律訓練法で催眠状態での「祈り」もやってみた。私の潜在的パワーはいつか開花するだろうか。

連絡会の直前に、ちょうど病棟に来ていた主治医に呼ばれて、「急に金曜日まで研修が入って、今週は不在になってしまいます」と言われた。私がちょっと調子を崩し気味なので気遣ってくれたのだろうか。「まあ、ちょっと波はありますけど、そんなに激しいわけでもないので大丈夫だと思います。日曜日は外泊の予定を入れてます」と伝えておいた。そう、次の日曜日は久々に歌の練習に出る。楽しみだが、練習会場まではけっこう遠い。そこに着くまでに疲れないように気をつけないといけない。あとは、練習自体でかなり集中力を使うので、そこで神経を使いすぎないように気をつけよう。1人1パートで構成するヴォーカルアンサンブルは、一人が狂うと全体のハーモニーが狂う。歌うのは楽しいが、かなり神経を使うのだ。

夜、依存症の本を読み始めた。けっこうさくさく読める本で、20:30くらいまでに半分読んでしまった。「依存症とは何か」から始まり、アルコールを中心として、いろいろな依存症の症例や回復方法などが書かれている。特にアルコールに関しては詳しく書いてある。アルコールは麻薬や覚醒剤などよりも依存性が強いということに驚く。自覚していないアルコール依存症の人は大量にいるそうだ。

さて、続きは明日にしてそろそろ就寝準備に入るか。明日も晴れるようだから、洗濯しようかな。

昨日は20:30に眠剤をもらって、その後「道は開ける」を少し読んだ後、21:00前には寝た。寝付きはよかった。途中目を覚ますと3:30だった。連続睡眠時間の最高記録かもしれない。その後もう一度寝て目を覚ますと、もう5:00前だった。気がつくと、冷えないようにと履いていた靴下が一足脱げている。なんでだろう、無意識に片方だけ脱いだのかな、と思いつつ足もとを探すがない。なぜか枕元にあった。自分でも???である。とりあえず靴下を履いてトレーナーを羽織り、ホールに出てくる。ホールは窓が多く、喫煙所はその隅にあるので、この時間帯はとても冷える。9月でこんなに冷えるんだったら、冬になったらどうなるんだろう?

主婦のIさんと話をした。昨日Iさんの、3歳か4歳くらいの娘さんが来ていて、私が「お子さんですか?」と尋ねたときに、その子が「こんにちはー!」と初対面の私に元気よく挨拶した、ということがあった。それで「明るくていい娘さんですね」と言ったら「ああなったのは最近なんですよ」と今までにあったことを話してくれた。

Iさんはアルコール依存症で、子供が2歳半の頃まで殴る蹴るの児童虐待を繰り返していたらしい。それを自分でもやめようと思って公共の相談所に相談したそうだ。ある日、子供がジュースをこぼしたときに、いつもなら怒っていたところを、怒らずに「ふきんで拭く?ティッシュで拭く?」と聞いてみると、子供は不思議そうな顔をして「じゃあ、ティッシュで拭く」と言って拭いた後、「ママ、怒らないの?」と聞いてきたらしい。その子はそれまで自分の感情を抑圧して生きてきたのだった。そのうち「ママ、あのときはどうして怒ったの?」と子供は自分が怒られたことに対して一つ一つ聞いてくるようになり、それが3ヶ月くらい続いたそうだ。「ママは変わったらしい」そう感じても、子供は用心深く、すぐには信用しない。その後、その子は一度赤ちゃん返りを起こし、はいはいをしたり「ママ、おっぱい」と言って吸いついてきたり、自分の人生をはじめからやりなおしたそうだ。それと同時にIさん自身も虐待をしないように相談を続け、虐待をしないようになっていた。そして今のように明るい子供に変わったそうだ。「娘と一緒に成長してます」Iさんは笑っていた。この子供はあやうくACになるところだった。救いだったのは、彼女の夫がおっとりしていて、ワーカホリックでもなかったことだと言う。父親が家庭をかえりみなかったり、母親を責めたりすると、そのツケはますます子供にまわってきてしまう。「小学2年生前だから、やり直しは大丈夫ですよ」相談員が言ったそうだ。「小学2年生」というのは一つの分かれ目らしく、それを過ぎると子供は自分を変えたくない、そう思うようになるらしい。

最近は子供の育て方がわからない親が増えてると言う。親がアルコール依存症でなくとも、子供を虐待したり親が不仲だったりすると子供はACになってしまう。と言って過剰な愛情をそそぎ込んでもACになってしまう。難しいものだ。

う~ん、なんだか熱っぽい。今日は友達と遊びに行く予定なのに。この病院の近くの公園へ来てバーベキューをやる予定なのだ。全部で7人も集まるし、遠くからはるばる来てくれる人もいる。なんでこんなときに限って風邪をひくのだろう。それにしても、一昨日から風邪薬を飲んでうがいもして養生しているというのに、なんで治らないのか。鼻水まで出てきやがったコンチクショウ。ここでぬるま湯のような生活を送っていると、却って抵抗力が落ちてしまっているような気がする。しばらく元気が出そうな明るいCDを聞いて休むことにする。念のため、使い捨てマスクを一枚看護婦にお願いしてもらった。市販のものとだいぶ形が違う。いかにも「病院用」という感じだけど、まあいいか。

8:20頃、看護婦に体温計を借りて熱を計ってみる。げ、36.9℃。ちとやばい。う~ん、でも看護婦の話だと、花もきれいでとてもいい公園らしいし、遠くから大勢来てくれるし、出ていかないわけにはいかない。幸いにも病院から近い。調子が悪くなったら、みんなには悪いけど途中で帰ることにして、とりあえず行くことにしよう。11:00頃に車で迎えに来てくれるので、それまでは体を休めよう。

9:00前に自販機に飲料を買いに行き、そのままオカリナを吹きに海の見える丘に行った。先客がいたので山の方へまわってグランドで吹いた。外の方が、風は多少あるものの日が照っていて暖かい。この格好だとかえって暑いくらいだ。そこでコンサートで吹く曲を通して練習する。ただ曲を練習するだけでなく、聴衆の前で緊張しないで吹けるようにも練習しておかなくてはならない。考えてみれば、私はコンサートに本当に「ソロ」で出るのははじめてなのだ。生えている草たちを聴取に見立てて、その前で演奏してみる。「聴衆がいる」と思っただけで緊張してきた。これを続けていけば、緊張しないで演奏できるようになるかな?逆に本番のときに、聴衆を草だと思って吹ければいつも通りの演奏ができるかもしれない。聴いてくれている人にはちょっと失礼かもしれないが。

熱を下げるために、朝からじゃんじゃん水を飲みまくる。そのため30分おきくらいにトイレにいっている。散歩から戻ってきたらイソジンでうがいもする。念のためイソジンとコップも外出時に持っていこう。出発まで時間がある。「道は開ける」を読み進めることにしよう。

N氏が病院に着いたことを知らせる電話を受け、出発した。今日はN夫妻はもうすぐ3歳になる息子さんを連れてきていた。公園の入り口で電車で来た他のメンバーと待ち合わせ、公園を歩いていった。残念ながら一人は来る途中で気分が悪くなって帰ってしまったそうだ。

かなり広い公園で、とても整備されていてきれいだった。朝とはうってかわってとてもいい天気で、長袖のシャツを脱いで半袖のTシャツ一枚になっても暑かった。早朝との気温差がかなりある。それにしても子供は元気いっぱいだ。一瞬たりとも目を離していられない。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、何にでも興味津々という感じだ。我々はときどきなので、こうやって一緒になって遊んであげられるが、親は毎日のことなので、さぞかしくたびれるに違いない。これくらいの子供は、会う度にその成長ぶりに驚かされる。物理的に大きくなったというだけでなく、いつの間にか語彙も増えていろんなことをしゃべるし、アルファベットまで読めるようになっていることに驚嘆した。まだ3歳にもならないのに。

昼はレストランのバーベキューのコースをあらかじめ予約してあって、久々にうまい肉を堪能した。ところでバーベキューと焼き肉の違いがいまいちわからんが、外でやると「バーベキュー」と言うのだろうか。飲み放題だったが、私はビールを最初に一口だけ飲んで、あとはウーロン茶を3杯飲んだ。暑いのでウーロン茶も何杯でもいける。

公園は大勢の人でにぎわっていた。3連休の最後で天気もいいせいだろう。だが、私にはその人混みはストレスになった。みんなと一緒に遊んだり、豊かな自然を目にするのはストレス発散になるのだが、まあ「ふたつよいことさてないものよ」ということだろう。

コスモス畑があるというので、そろそろ咲いている頃かな、とみんな楽しみにしていたが、遠くから見たコスモス畑はほんのちょっとしか咲いてなかった。一分か二分咲きというところか。みんな「え~、残念」と言っていて、私も最初はそう思った。

が、近づいてよく見ると、咲いている花はちゃんとある。そしてそれはとても美しい。一つ一つの花は色も形も微妙に違って、それぞれ楽しめる。そして、これら一本一本の花は、すべてそれぞれが生きている。他の花が咲いてないからこそ、自分をじっくり見てもらえるのだ。満開だったら、この一本にはみんなさほど注目しないだろう。

そして思った。「満開を期待していたら、この状況はがっかりかもしれないが、一本でも咲いていたらラッキーと思っていたのなら、この状況はとても嬉しいはずだ」そう、いつでも満開を期待すると、満開以外の状態はすべて「残念」な結果に終わる。同じ状況でもこころがけ一つでずいぶん違うはずだ。そう思った。これからは「満開」を期待せずに行こう。何事においても。

ずいぶん広い公園で、昼食を挟んで端から端まで歩いただけで、かなり時間がかかった。電車組とは解散し、私は車で病院に送ってもらった。N夫妻は帰り際、またコーヒーとミルク、それにハウスミカンを差し入れてくれた。本当にいい人たちだ。

病棟に戻ると、疲れがどっと出てきて、夕方の服薬後から夕食まで爆睡していた。暑い中を結構歩いたという肉体的な疲労と、かなりの人混みの中を歩いたという精神的な疲労両方あったようだ。

夜になっても結構暑い。半袖のTシャツでもいいくらいだ。夜中から朝方にかけてまた冷えるんだろうな。特にこの病室は窓が北向きなので寒くなる。今日からはカーテンを閉めて寝ることにしよう。

昨日は結局20:30に寝て、ほどなく眠りに入ったが、ぐっすり眠って目が覚めた、と思って時計を見ると2:00。なんなんだ。その後もう一度寝ると4:00に起きた。その後は眠気はあるにも関わらず、あまり寝られなかったので4:45に起きてホールに出てきた。朝はかなり冷え込む。スウェットの上にさらにトレーナーを着込む。これが冬になると、寒くて出て来れなくなるんだろうな。

喫煙所で話をしていると、教育の話題になった。Tさんは50歳くらいの女性だが、「自分は歌が下手だ」と思いこんでいるらしい。それは、小学生の時に校内で合唱コンクールがあって、そのときに先生から「あなたは下手だから歌わないでください」と言われたのがトラウマとなり、それをずっとひきずっているかららしい。「信じられない教師だな」私がそう言うと、30代の主婦のIさんが、「友達の子供の話だけど、幼稚園でピアニカの発表会があって、下手な子のピアニカにはセロテープを貼って音が出ないようにするそうよ」と言う。昔も今も変わっちゃいない。結局「先生」どうしの見栄の張り合いではないか。それが教育だとでも思っているのだろうか。そんな連中を「先生」と呼ぶ資格はない。むろん教師がみんなそういう人だとは思わないが、そういう教師は今でもいるようだ。それは「学校」あるいは「幼稚園」という、職場自体が閉鎖的な環境であることに起因しているかもしれない。そういう「先生」にあたった生徒は不運としか言いようがない。

朝食後、少し休んでから海の見える丘でオカリナを吹く。エントリーする旨を昨日メールで伝えた1月の演奏会で演奏する曲目それぞれのタイムを計ってみた。10分ぎりぎりってとこか。入退場と拍手などを考えると、もう少し縮めた方がよいかもしれない。今日はちょっとゆっくりめに吹いたので、もうこころもちテンポアップするとちょうどだろう。

病棟に戻り、「道は開ける」を読み進める。「悩みを完全に克服する方法」の章を今読み終えたところだが、結局根底にあるのは「神に祈る」ことらしい。たくさんの実例、それも実業界やスポーツ界などで活躍した有名人の例をたくさんあげて、彼らはみんな「神に祈る」ことを忘れなかった、そう書いてある。アメリカ人が書いた本で、実例もアメリカ人ばかりなので、出てくるのはキリスト教であるが、別にここに書いてある神がキリスト教に基づくものと限るわけではないらしい。重要なのは、「神」よりも「祈る」ことのようだ。最後の方に「祈りは神を信じる信じないは別として、あらゆる人々が共有する非常に根元的な三つの心理的欲求を満たしてくれるのである。」と書いてあり、さらにその三つの欲求の説明の3番目に「自然の神秘な力が私たちを支配しているかぎり、それを神と呼ぼうと、アラーと呼ぼうと、はたまた霊魂と呼ぼうと、その定義にこだわる必要はない」と書いてある。その考え方には諸手を挙げて賛同である。「自然な神秘な力」とは、私は「人間に内在する未知なる潜在的パワー」だと思っているし、神なんて何でもいいのである。

続いて「批判を気にしない方法」の章を読み終える。最後の節「私の犯した愚かな行為」は私に大きな衝撃をもたらした。自分が過ちを犯したとき、「自分の愚行」を記録していき、それに対する批判を書くのだ。そして、ときどきその記録を読み直して自己管理に役立てるのだという。去年読んだはずなのに、すっかり忘れていた。よし、自分もその記録をさっそく作ろう。

一服しにホールへ出ていくと、二人のおばさん、というかおばあさんが卓球をやっている。卓球と言うより「ピンポン」だが。そこにCちゃんが無言で加わった。Cちゃんとは、前にも書いたが、いつも暗い顔をして「たばこください」とか「お菓子ください」としか言わない、動作がとても遅い女性だ。が、最近Cちゃんに変化が見られる。体育館レクにも参加するようになってきたし、実は運動神経がいいことがわかった。スポーツをやっているときは、動作が素早いのである。卓球をやっていても、普段は見せない動きを見せる。しかも顔は笑っている。普段は彼女のこんな表情を見たことはない。「運動療法」は彼女にとって効果的なようだ。もっとスポーツに参加させれば、彼女も明るくなるかもしれない。看護婦や医者はそれに気づいてるいるだろうか?もちろん気づいているだろう。体育館レクに出てくるようになったのも、医者や看護婦の勧めかもしれない。いい傾向だ。

昼前から今度はセキュリティ関連の記事を再び読み出す。あまり神経を使いすぎないように気をつけて、休み休み読もう。昼過ぎからカラオケが始まっているが、私は風邪気味で喉も痛いため、パスする。イソジンでうがいし、お茶を飲む。お茶って殺菌作用があるんだっけ?でもタバコ吸ったらよくないかな?そう思いつつ吸ってしまう。

16:00を過ぎてからリラックス体操をいつもより入念にやり、最後の自律訓練法も入念にやった。自分を催眠状態に導いてから、「目覚めよ内なる潜在的パワー」とか「風邪はひいてない。風邪は治っている」「うつ病なんかではない。うつ病は治っている」などの暗示をかけてみた。その後、いつものように5つ数えて起きあがる、という覚醒暗示を与えてから5つ数えたが、催眠状態から覚めなかった。結局10ちょっと数えたところで浮き上がってきた。やれやれ、やばいところだった。催眠状態を無理矢理とくと自律神経のバランスが崩れて危ないのだ。

夕食後は久々にCDをじっくり聴く。最近本を読んでばかりで、音楽を「聴いて」楽しむ、ということもなかったのだが、好きな音楽をじっくり聴くのもいい。本ばかり読んでいたときは、ちょっと生活全体のバランスを崩していたようだ。

CDを聞き終えてから、ホールに出る。卓球をしているが、今日は風邪気味なので自粛する。久々に20:00の服薬時間まで長時間お喋りした。そう、他の人とこうやってコミュニケーションを取るのも大事なのに、それも最近忘れていたようだ。自分の山の話をしたり、中年のおばさんから、旦那さんの仕事の関係でアメリカに住んでいたときに車でキャンプしてまわった話を聞いたりしておもしろかった。アメリカのナショナル・パークやステート・パークにはキャンプ場があり、ものすごく整備されていてきれいだし、みんなマナーをきっちり守るらしい。日本のにわかアウトドア野郎とは大違いだ。それはそうと、風邪薬をも飲んでるし暖かい格好もしてるし、イソジンでうがいもしているのに、また熱っぽくなってきて、喉が痛くなってきた。明日はこの病院の近くの公園で友達と遊ぶ約束をしてるのに、大丈夫かいな?とりあえず最善をつくそう。今日のこの後は、洗面してから就寝時間まで「道は開ける」でも読み進めるとするか。

5:00起床。2:00に目が覚めたが、その後も一回目が覚めたような気もするがよく覚えてない。5:00に目が覚めて、まだ寝られそうだったけど、ちょっと起きてきてホールへ出てきてみた。寒い。朝はかなり冷え込むようになってきた。20分ほどそこにいてから、やっぱりまだ眠いので、病室に戻った。また寝ると起きられなくなるかな、と思ったが、別に起きられなくてもかまわないのでまた寝た。

そして6:00になり、起床時間を知らせる放送が入った。案の定、起きられなかった。だが、まあいいや起きる必要もないし、と思ってそのまま寝ていた。が、ラジオ体操の音が聞こえてきたとき、「あ、ラジオ体操だ。う~ん、これは行こう」かと思ったが体が動かない。「ま、いいか」そのときはあきらめた。その後だ。ラジオ体操の直後に朝の服薬があるのだが、自分は一人遅れて薬をもらいに行って飲んでいる、という夢を見ていた。その後には、「昔、自分が弟にしたひどい仕打ちを思い出し、そのトラウマに苦しんで『自分も弟も今こんなに苦しんでいるのは、自分が弟にあんなことをしてせいだ』と泣いて看護婦に訴える」という夢を見た。不思議だ。その夢に出てきたような「仕打ち」など私はしておらず、そういうトラウマはないはずなのだが。

7:00の朝食を知らせる放送でようやく体が動くようになり、朝飯を食べに行った。朝食後、洗濯物を洗濯機に放り込んで、海の見える丘へオカリナを吹きに行く。昨日、私が8月に出るはずだったアマチュア音楽家による演奏会の第2回の出演者募集のメールが来ていた。5分、10分、15分と枠があるが、10分で出てみようかと思っている。どの曲を吹こうかな。今日は候補曲として考えているのを吹いてみた。一度きちんとタイムを計ってみる方がいいだろう。

病棟へ戻ってくると、まだ洗濯が終わってないので、昨日のT看護婦の件について、日記に書いたのとほぼ同じ内容を紙に書き、投書する。他にも投書している人がいるかもしれない。他の看護婦の、やはり頭ごなしに叱りつけるようなものの言い方に対して直接医者に直訴した患者もいるそうだが、全く改善の余地は見られないそうだ。この投書も無駄かもしれない。だが、やらないよりましだろう。

外出まで時間があるので「道は開ける」を読み進めると、なんと「2週間でうつ病を治す方法」という節があった。こんなのすっかり忘れていた。読んでいくと、書いてあるのは、要は「一日一善」ということで、毎日誰かに親切にすることを考えていれば、精神状態はよくなって病気なんか治ってしまう、ということだそうだが、それでうつ病が簡単に治るのかいな?という疑問はどうしても出てくる。私も、たまに意地悪もするが、基本的には人に親切にしているつもりなのだが、まだまだ足りないということか。あるいはもっと積極的に「どうしたら人に親切にできるか」を考えて、実行するということか。どうもこの本にはそういうニュアンスで書かれてある。まだこの節を最後まで読んでないので何とも言えないが。

外出の時刻になったので、バスに乗り駅前へ出る。店が開くまで時間があるので、駅までの喫茶店に入り、ぼんやりした頭を覚醒させるためにエスプレッソを注文する。で、飲みながらこれを書いている。こういう空き時間を利用してこういうことができるのは、本当に便利なものだ。

買い物を終えて、バスの発車時刻まで時間があるので、今度はハンバーガーショップでこれを書いている。けっこういろいろ買い込んでしまった。買い物はやはりストレス発散の一つなんだろう。「失恋した女性が、衝動買いをしてしまう」というのも、ある満たされない欲求に対して、別の形で欲求を満たすということで精神的なバランスを保っているのかもしれない。今日は買い物していても全く疲れなかった。これくらいのストレスには耐性ができたようだ。

病棟に戻り、買ってきた小箱で床頭台の上を整理する。うん、かなりすっきりした。今まではメモ帳、ボールペン、タバコ、ライター、箸箱、スプーン、スティックシュガーなどが散乱していたのが、二つの小箱にすっきり収まった。それから棚の整理も行い、なんとかうまく衣類を収納できた。よかったよかった、と思いきや、そうだ今日は洗濯物を干してるんだった。それを取り込んだらまた増えるじゃないか。まあ、何とかなるだろう。

「道は開ける」を読み進める。「2週間でうつ病をなおすには」の節を読み終える。結局、目を自分の内側でなく外側、つまり他の人に向け、その人たちに対して親切をすることによって自分が幸福になれる、ということだ。それを積極的に探してやりなさい、そう書いてある。たとえば、会社で仕事をするときも、「自分が食っていくのに必要な金をかせぐため」とか「会社の利益に貢献するため」とか考えるのでなく、「この仕事をすることによって、まわりまわって誰かが幸せになるかもしれない。その人のために自分は喜んで働こう」そういう心構えでいると、精神的な安定感を保てるのかもしれない。これは私の解釈だが。日本の諺で言うと、「情けは人のためならず」ということか。この諺の意味を誤解している人もいるそうだけど。

夕方近く、喫煙所にいると同室のRさんが寄ってきてこう言う。「これから毎日朝と夕方に部屋でお経をとなえていいですか?少しうるさいかもしれませんが」そうだ、Rさんはある宗教の信徒だった。全国的にたくさんの信者がいる、割とまともな宗教だ。だが、それがどれだけ排他的なのかわからない。下手に「ダメです」と言うと、怒りを買ったり、あるいは彼を精神的に落ち込ませたりするかもしれない。とりあえず「いいですよ。でも看護婦さんにも一応断っておいた方がいいと思いますよ」と答える。

夕方の服薬後、リラックス体操をやっていると、Rさんが病室に戻ってきて「じゃ、始めますんで」と言ってお経をとなえ始めた。そんなに大きな声ではないが、狭い病室なので声はよく聞こえる。う~ん、今は体操やってるだけだから気にはならないが、本を読んでいたりすると気になるかも。病室には彼と私の他、誰もいない。そのうち誰かが看護婦を通じて文句を言うかもしれない。とりあえず私は静観していよう。

ところで、今日も腹の具合が悪い。別に何か悪いものを食べたとかではなく、神経性のものというのはわかっているが、腹の具合が悪いならやはり冷やすべきではないだろう。話は少しそれるが、私の両親は怪しげな「健康グッズ」が好きで、「この指輪をはめるとどんな病気も治るらしい」とか「この布は遠赤外線を出していて、これをあてているとその部分の病気が治る」とかなんとか言って次から次へと人に勧めるので、私は閉口している。で、数日前に母親がその「遠赤外線が出る布」なるものを数枚送ってきた。20cm四方くらいの、厚めの白い布である。遠赤外線か何か知らんが、腹巻き代わりにちょうどいいのでパンツに挟んでTシャツの中に入れている。

今日は土曜日にしては外泊が少なく、けっこう人がいる。今日は連絡会もないが、喫煙所に割と人が集まっていたので、買ってきたおはぎを広げた。本当は食べ物を人にあげるのは禁止されているのだが。私の一つ年上の会社員のKさんが風邪をひいて鼻水が止まらないらしく、ティッシュを丸めて両方の鼻の穴につめている。鼻水が止まらないと本当に苦しい。あれは私もやったことがある。以前、会社で一つのティッシュの端と端を丸めて両方の鼻の穴に詰めて仕事をしていたら、えらく笑われた。O嬢が「タンポン詰めてみたら?持ってきてあげようか」とか、私が「綿棒つめてみようよ。何本入るかギネスに挑戦してみよう」とからかっている。「耳栓」ならぬ「鼻栓」が発売されると、果たして売れるだろうか?

病室に戻り、「道は開ける」を読み進める。新しい章「悩みを完全に克服する方法」に入った。いきなり、「悩みに対する最大の良薬は宗教的信仰である」とある。やはり人間は自分に対して謙虚になり、自分であって自分でない何か、つまり一般的に「神」と呼ばれているものに「祈る」という行為が精神的安定をもたらすのであろうか。

なんだか私も熱っぽくなってきた。喉も痛い。どうも風邪の初期症状のようだ。全身冷や汗をかいている。やはり急に寒くなったからであろうか。私は季節の変わり目や急激な温度変化に弱く、すぐに体調を崩してしまう。看護婦に相談すると、もうすぐ回診の医師がくるというので、そのときに風邪薬を処方してもらえるとのことだ。で、ほどなくして風邪薬と、うがい薬の定番「イソジン」が出された。「イソジン」は効果てきめんなのだが、これでうがいするとコップがイソジン臭くなるのが玉にきずだ。まあいいや。今日は早く寝たいので、20:00に眠剤をもらって飲み、洗面した後にうがいをする。明日には調子がよくなっているといいな。

昨日は21:00就寝後、23:30だったか、一度目覚めたような気がする。その次は3:00に目が覚め、その時点で頭がすっきりして起きようかと思ったが、いくらなんでも早すぎるのでもう一度寝た。そして起床時間の6:00まで断続的に寝たり起きたり、を繰り返していた。睡眠のパターンが変わってきている。6:00に起きたのはいいが、なんだか頭がぼんやりしている。この間みたいに「起きられない」ということはなかったが、どうも「むりやり起きたけど寝ぼけてる」状態だ。

昨日の寝る前から、カーネギーの「道は開ける」を読んでいる。驚いたことに、最初の章の内容は去年読んだばかりなのにもう忘れている。こりゃいかん。2章の内容は自分にとって「目から鱗」だったのでよく覚えているのだが。やはり繰り返し読まないといけないし、この本に書かれている「ものの考え方」を日常生活で実践することが大切なのだろう。

朝食後もその本を読み進めるが、途中から頭がぼんやりしてきて、書いていることが頭に入ってこなくなった。読んでも内容が頭に入ってこないのであれば、読もうとするだけ時間の無駄である。本をそのままにし、横になって頭を休める。すると、いろんな不安、特に先日私が起こした「ウイルス避難訓練」に対する非難など、様々な不安が頭を支配してきた。不安なことを考えてもマイナスにしかならない。必死で不安を頭から追い払おうと、明るい未来を想像する。が、不安は大きなパワーでもって押し寄せてくる。途中からヒーリングのCDをかけて心を静めようとしたが、なかなか対抗できない。「自分の中にある不安は最大の敵」であり、それを追い払うには、やはり強い精神力が必要とされる。その精神力は今の私には足りないのか。それを発揮するには、やはり「自分の中の神」に祈るほかないのか。

できるだけ休んでから作業棟に行く。そのちょっと前に「今日は午前中にソフトボールをします。出る方は集まってください」という放送が入った。N看護士が率先してやってるみたいだが、なんで作業療法の時間と重ねるんだろう?私が畳でストレッチしてるときに、N看護士から「ソフトボール出る?」と誘われたが、「私は自分のメニューをこなしますので」と断ってしまった。出てもよかったが、今日は自分の体調はあまりよくない。却って無理をしてしまっても困る。通常の体力トレーニングメニューをこなすことにした。

心拍数を計ると、やはりかなり高い。体力テストを行うと「6段階中の1。劣る」まあ、今日はこんなものか。10分インターバルをとってから20分1セット漕ぐ。やはり今日はかなり調子が悪いようで、負荷はあがらないのに心拍数だけ上がっていき、消費カロリーも少なかった。今日は無理をせず1セットで終わりにした。あ、腹筋するの忘れた。まあいいや。

エアロバイクを漕いでいるときに、隣でピアノを弾いているMちゃんが話しかけてきた。「明日、外泊するんだ。それがうまくいったら退院なの。うまくいくかな~。多分ダメかも」それに私は答える。「大丈夫、うまくいくよ」すると彼女は「うん、うまくいくよね」と笑ってくれた。「うまくいかないかも」と考え出した瞬間から、自分の心はマイナスの方向に走り、結果的にうまくいかなくなることは「心の法則」らしい。「大丈夫、うまくいく」いつでも前向きにそう考えられれば、私ももっと楽になれるのだろう。

その後でMちゃんが「陶芸で作ったんだ」と言って、自作の灰皿を見せてくれた。なかなか素朴で味があっていい。「色付けに失敗しちゃったんだ。本当は全部ここの色で染めたかったのに、周りがうまく染まらなかった」残念そうにそう言う。「何も完璧にできる必要はないよ。はじめてでこれだけできたんだから、『よくやった』って自分を誉めてあげなよ」人には簡単に言えるが、自分でそう思うのは難しい。私もご多分に漏れず完璧主義で、一点の曇りも許せない性格だから。それが自分を今の状況に追い込んだことはわかっている。が、そういう性格、ものの考え方を変えるのは難しい。難しいが、不可能ではないはずだ。少しずつ、少しずつ。あせらずに自己変革をしていこう。

昼の服薬後、みんながテレビを見ている。「ここが変だよ日本人」の「心霊特集」という、ちょっと変わったテーマを録画したビデオだった。私はこういう「心霊もの」が実は好きなので一緒に見ていると、心霊ものの後に、中国一番と言われる気孔士が出てきて、「気」の力で人を動かしたり倒したりする、というのをやっていた。一緒にビデオを見ていた人達は「やらせじゃないの?」と言っていたが、私自身は「気」というものの存在はなんとなく「あるんじゃないだろうか?」と思っている。実際自分が体験したわけではないが、世の中にはまだ科学で解明されていないことがたくさんあるはずだし、私があるに違いないと思っている「人間に秘められた未知なるパワー」の一つが「気」かもしれない。私の素人考えだが、「気」とは精神的エネルギーの形態の一つで、「気を送る」とは、精神的エネルギーを何らかの伝播路を通じて伝達することであり、「気によって人を動かす」のは、精神的エネルギーを何らかの形で物理的エネルギーに変換し、それを空間を超えた伝播路を通じて伝達させることなのではないか。その「エネルギー」やら「変換メカニズム」「伝播路」が科学的に解明されていないだけなのかもしれない。まあ、テレビ番組だから当然脚色はあるだろうが、私は他の人のように全否定するつもりはなく、とりあえず見ていておもしろかった。

昼食後、売店に行って「依存症 溺れる心の不思議」という本を買ってきた。けっこうみんな読んでいる本だ。私は別に何かの依存症で入院しているわけではないが、性格的に何かの依存症に陥ることは十分ありうる。それは昔から自覚していて「一度何かにはまってしまうと、どっぷりはまって抜けられなくなる」のだ。だからゲームもやらないし、学生時代に麻雀に誘われても、あえてルールさえ覚えようとしなかった。今後何かの依存症になる可能性はある。その予防策として、「依存症」について予め勉強しておこう、そう思って買った。また読む本が増えてしまった。

昼一番に入浴後、「道は開ける」を読み進める。改めて書いてあることに納得するとともに、書いてあることをすっかり忘れていたことに気づく。やはり、何かの形で実生活にこの考え方を取り入れなければならないだろう。Kさんと話していて「悩みのない人ってのは、ここに書いてあることは自分で会得しているんだろうね」そうかもしれない。

だが、ふと気がついた。去年も一昨年も、9月になって鬱が急にぶり返した。自分の分析では、それまでが自分にとって「躁状態」であり、そのときにエネルギーを使いすぎたため、その反動で鬱が来たのだろうと思っている。季節的なものやバイオリズムも関係あるかもしれない。とにかく、そのときは「悩みがない」のにぶり返したのだ。一度この病気になってしまったら、悩み以外の原因で病気がぶり返すのだろうか。あるいは「ぶり返した」のでなく、「鬱から躁に転じた」のを「治った」と思いこんでいただけで、それがまた逆転しただけなのか。

この本に書いてあることがすべてではない。たとえば、悩みをなくす方法の一つとして「忙しくすること」があげられている。「やることがたくさんあって自分を忙しい状態に追い込むと悩んでる暇なんてない」そうだ。しかし、忙しすぎて悩んでいる人もまたいることだろう。この本は一つの指針ではあるが、すべての場合において自分にあてはまるとは限らない。そもそもこの本に限らず、どの本もそうなのだ。だからこそ、いろんな本をまんべんなく読んで、「自分に役立つ」と思ったところを少しずつ取り入れたりカスタマイズしたりして自分の「生き方」「心のあり方」を習得していくべきなのだろう。

自分の場合、上に書いた「忙しくすること」を取り違えて「パワーを使いすぎる」状態にならないように気をつけないといけない。今の自分の悩みは「何かの拍子で鬱状態に入ったときに、悪循環に陥らないようにするにはどうすればいいか」と「躁状態であることを自覚するにはどうすればいいか」だ。悩みというより、課題と言った方がいいかもしれない。

同室のRさんが調子が悪いようだ。彼は分裂症らしいのだが、「被害妄想」ならぬ「加害妄想」があるようで、「世界がこんなにひどいのは僕のせいなんです」と必死に看護婦に訴えている。同時多発テロ事件の影響だろうか。

連絡会で、ある患者が「洗面所の蛍光灯がまだ直ってないのですが」と質問したとき、T看護婦が「スイッチがおかしくなっているんです」と答え、それに対してその患者が「修理はしてもらえるんでしょうか」と言ったら、T看護婦はいきなり「依頼中です!」と大声で叱りつけるように言った。みんなそれでびくっとしていた。なぜそんなに叱りつけるような言い方をするのか。私には、単に看護婦が自分のイライラしをぶつけているようにしか見えない。看護婦のいらいらは患者に伝染する。確かに看護婦はストレスのたまる仕事かもしれないが、それを患者の前に出してしまっては、プロではない。看護婦の仕事は「看護」であるはずなのに、その逆をおこなっている。他の看護婦にもそういう人がいる。なんとかならないだろうか。

「道は開ける」を読み進める。「悩み」の章が3つ続いた後に、「平和と幸福をもたらす精神状態を養う方法」に入る。そうだ、そういう章もあったんだ。改めて目次を見ると、他にも「批判を気にしない方法」「疲労と悩みを予防し心身を充実させる方法」なんてのもある。そうそうあったあった。すっかり忘れていた。「疲労」の予防にもちゃんと書いてあるんだった。まだ再読していないので内容はわからない、というかすっかり忘れている。

「平和と幸福をもたらす精神状態を養う方法」を読んでいくと、うんうんなるほど、どっかで読んだ気がする、と思っていると、基本的な考え方は、例の「宗教関係」の本とほとんど同じではないか。そうだよ、こういう風に書いてくれれば納得するんだがなぁ。とりあえずこの手の本を繰り返し読んで、どうにか実生活に採り入れる方法を考えよう。

夜は卓球。以下省略。

20:00になった。みんなは服薬だが、私は日記を書いている。これを書いたら就寝時間まで「道は開ける」を読み進めよう。明日は午前中に駅前まで買い物に行くし、洗濯もしたい。晴れるといいな。