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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

日別アーカイブ:2001年9月20日

昨日、昼間にあれだけ寝たのに不思議とよく眠れた。自分の心を洗い流すかのように、浄化作用が働いたかのように。21:00消灯後、寝付いたのは22:00をまわってから、といつもより時間がかかったが、途中2:00に一回目が覚め、次に5:00に目が覚めた。割とぐっすり眠れたような気がする。5:00からはもう眠れなかったが、これだけ眠れば十分だ。しかし、ホールには出ていかずにずっとベッドの中でじっとしていた。一度出ていくと、また昨日のように眠たくなってまた寝てしまい、また起きられなくなるのが怖かったからだ。

5:30頃、おそるおそるメールチェックする。もう非難のメールは来ていないので、安堵する。昨日「MLでは説明できない事情」を説明したメールを送ったG氏からは、「あんまり自分をいじめないでね」と返事が来ていた。自分をいじめてしまうのは、やはりよくないのだろうが、自分で自分を赦すことができるほど、まだ自分の精神状態は安定していないし、悟りを得ているわけではない。

5:45頃、ホールに行ってコーヒーをいれ、一服する。すでにたくさんの人が集まっている。煙草を一本吸ってコーヒーを飲んだ後、洗面所へ行くと、もう待ち行列状態だった。少し待って洗面をすませ、病室に戻る。と、ほどなくして6:00になり、起床を知らせる放送があった。これから二度寝しないようにしなくては。なんとかして起きている状態を持続しよう。

なんとか不安定ながらも起きている。今は朝食を食べ終わったところだ。「鬱は自覚できるが躁は自覚できない」どうしたらいいのか。

ヒーリングのCDを聴いたあと、一人でオカリナを吹きに丘へ行く。その後戻ってきた。台風の影響で、雨は降ってないが風は強い。少し落ち着いてきたが、まだ元気はなく、無理して出かけようと思えば出かけられなくもないが、どうしようかまだ迷っている。無理は禁物だろう。

結局外出は取りやめ、無理のない範囲で日課をこなすことにした。今日は木曜日なので午前中は体育館レク。しんどくなったらやめようと思っていたが、やっているうちに頭のもやもやが取れていき、すっきりしてきた。スポーツはいい。やっている間は嫌なことも忘れられて、それに集中でき、体を動かすことによって全身が活性化し、好循環を生み出すような気がする。

病棟で最年少のサーファー系A君が退院していった。みんなで迎えの車まで見送りに行った。みんな次々と退院していく。同室のKさんも今月いっぱいで退院する予定だと行っているし、向かいの部屋のKさんも退院に向けて体力をつけるために毎日ウォーキングに行っている。私はいつまでかかるのか。入院して1ヶ月半以上過ぎたが、まだこんなにぶり返しているようでは、まだまだ先は長いだろう。あせってもしかたがない。入院費を今日支払ってきたが、この前は保険金で儲かるなんて喜んでいたが、儲かるどころの入院期間では済まないかもしれない。いいや、この際お金のことは忘れよう。ある程度の貯金はある。そう言えば、年間の医療費が10万円を超えたら、何か控除があるはずだ。その手続きについては、まだ早いかもしれないが一応確認しておいた方がよいだろう。そういうときのために、すべての医療費の領収書はとってあるのだから。

昼から例の「宗教関係」の本を読み進める。途中眠くなってうとうとしてしまったが、最後まで読み終えた。書いてある本質、ものの考え方はいいのだが、やはり古い文体と、同じことを表現を変え例えを変え何度も何度も繰り返して書いてあるのに閉口する。もっともこれによって人はマインドコントロールされていくのであろう。「単純な繰り返し」はマインドコントロールの第一歩だ。私もここに書いてあるものの考え方を、今読んで理解するだけでなく、日常生活に取り入れようと思うと、やはりマインドコントロールされる必要があるのだろうか。ここに書いてある考え方だけを頭に植えつけられるのであればいいが、この宗教そのものに洗脳されるのはまっぴらごめんだ。最後まで読み終え、裏表紙にある「全集」の紹介を見て、この本が40巻あるうちの1冊に過ぎないことを知る。これらを全部まじめに読めば、マインドコントロールされるのであろう。

次に何の本を読もうか迷ったが、「アダルト・チルドレン完全理解」を読むことにした。前の「アダルト・チャイルドが自分と向き合う本」とは違って、単にアダルト・チルドレンや共依存について解説した本だ。自分はACだと思っているし、それについて深く知りたい、共依存についても知りたい。カーネギーの「道は開ける」の再読はこの後にしよう。

夕食後、主治医と面談する。特に「相談」というわけではなく、自分の状態の変化について、直接自分の口から伝えておきたかっただけである。私が調子を崩していることは看護婦を通じて知ってはいるだろうが、看護婦の観察ではわからないようなことを「報告」しておきたかったのである。朝、起きようとした夢を何回も見たこと、調子がいいやと思ってコンピュータ関連の雑誌を読みまくっていたときが、実は自分にとっての「躁状態」つまりハイテンション状態で、そこで無理をしてしまったかもしれないということ、そしてその手の雑誌を読みまくっているうちに「早く職場復帰しなければ」というあせりが出てきてしまったかもしれない、ということを伝えた。あせらずに行こう。「あせらない」「調子がいいときほど慎重に」を自分の標語にしよう。

ACの本を読み終えた。読みやすかったので一気に読んでしまった。まず驚いたのは、「ACとは医者やカウンセラーが診断する客観的なものではなく、『自分がACだと思ったらAC』だという、きわめて主観的なもの」であるということ。この本の最初の方に書かれているACの特徴を読んで、やっぱり「自分はAC」だと確信した。さらに父親もACではないか、そう思った。

驚いたことに、ACを回復(病気ではないので治癒、治療とは言わないらしい)するための、「ACの12のステップ」というのが紹介されているのだが、そこに「自分で理解している神、ハイヤー・パワー」というのが出てくるのだ。ここにも「神」が出てくる。だが、それは特定の宗教でなく、「自分で理解している神」である。結局人は自分の潜在意識に働きかけ、自分自身を変えようとするとき、自分の中にあって、なおかつ自分ではない「何か」に心を委ねる、ということがどうしても必要になってくるらしい。それは私が考えている「人間に備わっている未知のパワー」を引き出すために、どうしても不可欠な概念のようだ。私の場合、「自分で理解している神」とは、上に書いたそのもの「自分の中に備わっているはずの未知のパワー」としか言いようがない。

著者の女性は、中年向けのACのミーティングを中心に活動しているため、女性向き、中年向きの内容や事例が多かったが、割と参考になった。読むだけで少しは楽になれたかもしれない。「ACはなんでも人のせいにしていると言われますが、人のせいにすればいいと思います」などと書いている。ACは自分で背負い込むものが大きすぎ、人のせいにできなかった人なので、正々堂々と人のせいにして自分が楽になればそれでいい、そういうことだそうだ。そして、私が一番「なるほど」と思ったのが、実は「あとがき」にある以下の言葉だった。

「戦争もない、飢えもない、政治闘争もない。でも人は情緒的に殺されることはあるし、みずから感情を抹殺しないと人格が破壊されることもあるのです」

私の育った家族は、間違いなく機能不全家族である。そして兄弟全員がACだろう。それはいろんな形で出ている。私は多分人格障害ではないが、私以外の三人は人格障害だろう。特に三男は境界例であり、もっとも顕著である。この本を両親にも送って読んでもらおう。

さて、次はどの本を読もうか。カーネギーの「道は開ける」を読むか、勇気を出して「原家族ワーク」を進めるか…。そういやカウンセリングが受けられるかどうか、さっき主治医に確認するのを忘れた。まあ、向こうから言ってこないのだから、まだ確認がとれてないのだろう。